ニッポンをバブル景気の熱が覆っていた1987年。29歳の現役大リーガーがシーズン途中にヤクルトへ入団し、フィーバーを巻き起こしながら、179日で去っていった。男の名はボブ・ホーナー。当時、ヤクルトの国際スカウトとして獲得に携わり、入団後は通訳として公私ともにサポートした中島国章氏が、至近距離の真実をスポーツ報知に証言した。今だから明かされる、ホーナー旋風の舞台裏とは―。(加藤 弘士)

オーナー、待ってください。それは無理難題です…。

87年3月下旬。中島は球団代表の田口周とともに、東新橋のヤクルト本社にあるオーナー・松園尚巳の部屋に呼ばれた。

総帥からの指令はこうだ。

チームは2年連続最下位と低迷している。魅力的にするため、意識改革をする。今、大リーグで4番を打っている打者を連れてこい。金はいくらでも出す。ファンが仰天することをやりたいんだ―。

「代表は『もう公式戦が開幕なので、難しいです』と説明したんだけど、オーナーは怒り始めて『連れてこいと話しているんだから、連れてくればいいんだ』って。瞬間湯沸かし器ですよ。土台無理な話。でも『とりあえず米国に行けば、何とかなる』というのが、おめでたい俺の性格なんだよね」

中島はプロ選手の経験こそないが、語学が堪能なことから73年、南海の臨時通訳をきっかけに球界入り。同年からはヤクルトでペピトーンやマニエルらの通訳を担当した。外国人選手への献身的な姿勢が評価され、松園からの指令でこの春、国際スカウトを兼務することが決まっていた。

「米国へ出発するんだけど、公式戦開幕前だとやはり無理かなと、あきらめムードでした。『ダメなら、オーナーから灰皿を投げつけられるしかない。痛いかもしれないけど、しょうがないな』って。その頃、ヤクルトはパドレスと友好関係にあった。
マッキーンGMは顔も広いから、まずはサンディエゴへあいさつに行ったんです。すると、ヤクルトが大物を探しているというのが米球界でうわさになって」

レッズで本塁打王に2度輝いたジョージ・フォスターや、メジャー通算442発を誇る強打者、デーブ・キングマンの代理人からも電話がかかってきた。とはいえ両者とも39歳シーズン。すでにピークは過ぎている。

現役バリバリの大リーガーなんて、やはり夢物語か。

そんな中、奇跡は起きた。

「2週間以上たって、またマッキーンに会いに行ったら『ボブ・ホーナーという選手がいるよ』って勧められたんです。大リーグの4番で主将。これだ!と」

ブレーブスの大砲は29歳。前年には1試合4本塁打も達成し、シーズン27本、87打点をマークした。
オフにFA権を獲得したが、当時の大リーグでは赤字球団が少なくなく、年俸の高騰を嫌って各球団のオーナーが協定を締結。FA選手には低年俸しか提示しなかったため、たまたま“売れ残って”いたのだ。

4月18日、交渉はまとまった。1年契約で、年俸は日本球界史上最高の3億円。当時の国内NO1は中日・落合博満の1億3000万円であることを考えれば、破格だった。

4月27日。成田空港に到着。フラッシュの嵐を浴び、ホーナーは言った。

「体調はベストだ。明日からでも試合に出られる」

179日間の狂想曲が始まった。=敬称略=

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200428-04280181-sph-base
4/28(火) 20:36配信

https://www.youtube.com/watch?v=T59a4Xb50-k
ボブ・ホーナー 来日4試合で6ホーマー!

https://www.youtube.com/watch?v=FthGX4qEbF8
ボブ・ホーナー本塁打 1987年6月 巨人 vs ヤクルト

https://www.youtube.com/watch?v=fFSYyofQRfw
ホーナー

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成績