【サッカー】ジョルジーニョの告白。鹿島移籍時 「ジーコは私をほしくはなかった」
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あのブラジル人Jリーガーはいま第1回ジョルジーニョ(前編)
1994年アメリカW杯。ブラジルは決勝でPK戦の末にイタリアを下し、24年ぶりに世界チャンピオンのタイトルを手に入れた。
その立役者はロマーリオだった。彼は大会中チーム内最多の5ゴールを決め、大会最優秀選手にも選ばれた。しかし、その優勝を陰で支えたもうひとりの功労者がいた。それがジョルジーニョだ。
本大会を前にブラジルは危機に陥っていた。南米予選の最終戦で、ブラジルはウルグアイに勝たなければならなかった。
そうでなければ、史上初めてW杯出場を逃す可能性さえあった。しかしこの時、セレソン(ブラジル代表)の雰囲気は最低だった。
ロマーリオがその少し前の親善試合出場を拒否したことで、カルロス・アルベルト・パレイラ監督との仲が決裂しかけていたのだ。
そこで立ち上がったのがジョルジーニョだった。彼はロマーリオにチームに戻るように説得し、モチベーションを上げさせると同時に、パレイラ監督を落ち着かせた。
その結果、ロマーリオはこの試合で2ゴールを決め、ブラジルは無事W杯出場を決めた。
ジョルジーニョ自身も1ゴール目をアシストなど活躍。
ロマーリオはゴールを決めると。真っ先に彼のもとにかけつけた。
温厚で常に礼儀正しく、他人をリスペクトするジョルジーニョは、いわばロマーリオと正反対の性格であったが、それがよかったのかもしれない。
セレソンの合宿でふたりはいつも同室で、ジョルジーニョは多くの伝説を持つ悪童に忠告ができる、数少ない人間でもあった。いまでも彼らは仲のいい友人である。
彼がサポートしたのはロマーリオだけではない。
ドゥンガも一筋縄ではいかない性格をしているが、彼の代表監督就任中、ジョルジーニョはそのアシスタントを務めている。
チームメイトのみならず、対戦相手やサポーターなど、誰からも愛される存在であった。
ブラジルサッカーの歴史の中でも、最も紳士的で謙虚な選手といっても過言ではないだろう。
ジョルジーニョは1964年、リオデジャネイロの郊外の貧しい地区で生まれた。父親のことをジョルジーニョはこう語っている。
「彼はポルトガルからの移民だったが、とにかく酒が好きだった。家に帰るといつも暴力をふるった。
今でいうDVだ。母はあまり何度も殴られたため耳が聞こえなくなってしまった。私も手加減なしに殴られた。本当にひどい子供時代だった」
その父親も早くに亡くなり、一家は貧しかった。ジョルジーニョ少年にとって、サッカーはそんな現実から逃れる唯一の手段だった。
「サッカー人生で最も栄光に輝いていた時でさえ、かつての家での風景がフラッシュバックのように脳裏に蘇る。
母が泣き、自分は殴られないようにどこかに隠れ震えている。そんなシーンがまるで映画のように見えてくるんだ
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200424-00892200-sportiva-socc&p=2
4/24(金) 17:00配信
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/assets_c/2020/04/b99318a2e686b8ea731aa653a6fd8462cd7ce02d-thumb-500xauto-231501.jpg
https://farm8.staticflickr.com/7005/6463661409_beb75cfff0_b.jpg
https://www.nikkansports.com/soccer/news/img/201805240000024-w500_10.jpg
https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/0/6/-/img_060c3cb8994822e60f03bdb12f8ce324285062.jpg
https://www.football-zone.net/wp-content/uploads/2020/07/20190731_Jorginho-GettyImages.jpg
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https://img.footballchannel.jp/wordpress/assets/2020/04/0420kashima1995-560x373.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=2CvhkJETnBc
FAMILIA ANTLERS?ジョルジーニョメッセージ&ゴール集〜
https://www.youtube.com/watch?v=KLik6bnu2pg
ジョルジーニョチャント
https://www.youtube.com/watch?v=gsrpZPSJKbY
【鹿島アントラーズ】FAMILIA ANTLERS?レオナルド・ゴール集〜 彼の持つ優しさは、そうした生い立ちからくるのかもしれない。選手時代、彼は毎日一番に練習場に現れ、翌日のために誰よりも早く就寝した。
そんなジョルジーニョをフラメンゴでともにプレーしたジーコはこう評している。
「ジョルジーニョはサッカー選手のお手本のような生活態度だった。彼が頑張っているから、自分も頑張る。そう思う選手も少なくなかったろう。
彼はチームのエネルギーの源であり、無くてはならない存在だった」
せたんだ」(つづく)
ブラジルからヨーロッパに渡っても仕事に対する真摯な態度は変わらなかった。
レバークーゼンで多くの勝利を得て、名門バイエルンでは外国人選手ながらキャプテンを務めるまでになったのは、彼の人柄と仕事熱心な態度からだろう。
1995年、シーズン途中に突如ドイツを離れ、日本へと渡った。当時のいきさつをジョルジーニョ自身が教えてくれた。
「実は日本に行くなんていう考えは自分の頭にはまるでなく、イタリアかスペインに行きたいと思っていたんだ。
しかし、バイエルンがヨーロッパのライバルチームに私を渡すのを嫌がっていて、そんな時に日本からのオファーが来た。
私を鹿島アントラーズに呼んだのはジーコということになっているが、それは真実ではない。私を呼んだのはジーコの兄のエドゥだった。
あまり知られていないことだが、ジーコは私をほしがってはいなかった。彼らには、アルシンドの代わりになるような前線の選手が必要だったからだ。でもエドゥの口調は断固としていた。
『ジーコと喧嘩をしても僕は君がほしい。このチームには真のリーダーが必要だ。経験があってチーム全体を動かせるようなね』と。その言葉が私を決心さ ジョルジーニョって貧民出身だったのか
レオナルド程ではないけどインテリ家系なのかと思ってた 名古屋にもジョルジーニョっていたよね
ちょうど入れ違いでこっちのジョルジーニョが来た感じだったけど バイエルンからイタリアスペインへと思ってたら日本へ セレソンがワールドカップからそのままJリーグ入りだもんな。すんげぇ話だ。 >>7
クラシカルなパサーだった
ガルサとかエリベウトンとか
弱いけど個性的だった名古屋の外人
w >>2
当初は右サイドバックだったけど、攻撃力を生かすために右のMFにコンバートされたんだよな。
その後サントスの移籍でボランチに。 >>11
その頃は世界トップクラスでも年俸億行くかどうかってレベルだったとか
そりゃ日本来るわな マジーにょ、レオナルド、じょるじ、ビスマルク、モーゼル 生で試合見て、日本人とのクロスの質の違いにビックリした。体幹の差かな。 >>14
ユーベでキャリアハイを迎えていたバッジョが1.2億(税抜)だった時代に
ポンコツリネカーが3億(税込)だからななw
その後、ボスマン判決とCLの成功で欧州クラブが金を持つようになり、日本の資金力では太刀打ちできなくなった >>12
しかし92年ナビスコカップは6勝3敗でボーナス勝ち点の特殊ルールがなければヴェルディに次ぐ2位だったんだよな
結局リネカーが全然チームに合ってなかったのが致命的過ぎたんだろな レオナルドも最初代表でサイドバックで、右ジョルジーニョ、左レオナルドの二人が、中盤の選手より全然上手くてチビった記憶 ジョルジーニョがユースをやめようとしていたのを引き留めてトップチームにスカウトしたのもエドゥ―
監督としては微妙だが、若手の能力を見出す能力は超一級だった
現在ジョルジーニョは奥さんと子供が新型コロナウイルスに感染し発症、義父は人工呼吸器をつけて入院中とのこと
ブラジルもかなり大変な状況だ
https://twitter.com/atlrs_official/status/1253135646220140545
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>17
その頃はジョルジーニョのクロスの質より、俺はスキラッチのシュートの質の方にびっくりした
どの体勢からでも確実に枠に飛ばすのを見て、ポンコツ化していたリネカーとは違う、本物のW杯得点王を見た >>17
昔ファルカンがガンバの今藤にクロスどう頑張って教えても上手くならないのを悩んでいたの思い出したわ >>20
レオナルドは俺もちびった
結局あれ以上のインパクトを与えてくれる選手は
出会えなかったわ このサントスってアデミール?それとも清水にもいた大ベテラン? 1994 ブラジル代表
――――― ロマーリオ ― ベベット ―――――――
ジーニョ ――――――――――― マジーニョ
―――――――――――――――――(ライー) ―――
――――― ドゥンガ ―― M・シルバ ―――――――
レオナルド ―――――――――――― ジョルジーニョ
(ブランコ) ―――――――――――――――――――
―――― アウダイール M・サントス ―――――――
―――――――― タファレル ――――――――――― 晩年でもジョルジーニョが交代で入ると試合の流れがガラッと変わった >>20
レオナルドって前年のトヨタカップで来日したとき
もっと攻撃的なイメージだったので左SB起用はマジかと思ったら
大当たりなんだもんな
そりゃトルシエも本山を左SBで使うわ
>>26
後者 レオナルドは鹿島在籍中にコパに出て10番つけてプレーしてたからな
ジョルジーニョもスタメンだったし
今じゃ考えられないな ジョルジーニョは厳格なクリスチャンだからね。カカも好きだけど彼も好き。 来日当初は鹿島アントラーズでも右サイドバックに入った。しかし、海外にいた時と同様に積極的にオーバーラップしていたら、ジョルジーニョが上がったスペースをどんどん狙われてしまった。
他の選手もうまくスペースカバーもできなかったから、それならジョルジーニョはMFにコンバートしたほうがバランスも取りいった。 >>20
当時のブラジル代表はサイドバックに足元の技術をおいて起点を作りたかったから。今となれば最先端。
クラブチームでMFのレオナルドを左サイドバックに。
ジョルジーニョはバイエルン等クラブチームでもMFを普通にこなしてるぐらい足元うまかった。 >>12
ガルサのJリーグチップスのカード、こないだ実家帰ったら捨てられずに残ってたぞ ジーニョ マジーニョ ジョルジーニョ
ーニョ三兄弟で有名だったよね >>28
機能美に溢れたブラジル代表。レオナルドとジョルジーニョの両サイドバック、ロマーリオとベベットの2トップが強烈。
開催国のアメリカ戦は熱かった 1995 1st 鹿島
―― 長谷川 ―― 黒崎 ―――――
――――― レオナルド ―――――――
相馬 ―――――――― ジョルジーニョ
――― サントス 本田 ―――――――
大野 奥野 秋田 ――――
(賀谷) ――――――――――――
―――――― 古川 ―――――――― 今はイニエスタだけ異次元だけど
当時のドゥンガ、レオナルド、ジョルジーニョ、ストイコビッチのほうが豪華だったな リトリートで相手を引き込んで守備するのが多いJの中で
ジョルジとブッフバルトだけ深いスライディングタックルで
ボール捕りまくってた >レバークーゼンで多くの勝利を得て、名門バイエルンでは外国人選手ながらキャプテンを務めるまでになったのは、彼の人柄と仕事熱心な態度からだろう。
バイエルンでドイツ人以外がキャプテンになったのってファンボメルだけだと思うんだけど >>48
ジョルジーニョはバイエルン初の外国人キャプテンだよ >>6
旦那の監督時代に見たけどまるまるとして面影は少し残ってたくらいだった 元インファイトの自分としては、世界で一番愛した選手かもしれない
サインを1枚だけ持ってる。(満男は持ってないw)
ジョルジ、ありがとう
ご家族の武漢肺炎に負けないで! >>29
引退後にセレソンのコーチになった時も
紅白戦の数埋めにジョルジが入ったら対面をフッ飛ばしていたらしい あの時はバリバリの現役セレソンが二人来てビビったわ >>17
当時の日本人と助っ人連中とは蹴り方が全然違うって名古屋の中西が言ってたような
その蹴り方も体幹強くないと蹴れないかもな べべトも94年に鹿島に来てたら評価変わってたかもしれないのは残念だったな >>28
実はアウダイールもマルシオサントスもCBのファーストチョイスじゃなかったのが面白いよなあ。 ジョルジーニョとドゥンガは仲が良くて
ドゥンガとサンパイオは仲がいい
ジーニョは別物なのかな
ジルマールとかもどうだったんだろう
ブラジル人の交友関係気になる レオナルド→ジョルジーニョ→マジーニョヘッド
国立のフリューゲルス戦
サンパイオジーニョがいたな。 >>61
リカルド・ゴメスとリカルド・ローシャだっけ?
エース級の活躍を期待されていたライーが不調だったな
レオナルドの代わりに出てきたブランコはオランダ戦で決勝点になるFKを決めたし本当に層の厚いチームだったなあ まあ、あの頃は当時世界最高の右SBと呼ばれ選手を、しかもW杯でセレソンの優勝メンバーをJがぶっこ抜き出来た時代だからな
しかもあのバイエルンミュンヘンからだからなw >>28
レオナルド、ジョルジーニョ、ドゥンガ、ジーニョ、ベベット
11人中5人がJリーグに来たんだよなw
この時のリザーブメンバーのサンパイオもジーニョと一緒に日本に来て
4年後横浜フリューゲルスの選手としてブラジル代表のスタメンを勝ち取って
しかも本大会で活躍しまくったんだよな >>66
みんな忘れてるだろうけど、清水にいたDFのロナウド(ロナウダン)も94W杯メンバーなのよね・・
94年大会に出場した3人のJリーガーの1人
188cmの高さに強さを併せ持ち、深くて鋭いタックルもまさにセレソンの技だった
あと2人はメディナベージョとノ・ジョンユン Jで生観戦をして1番上手いと思った選手はレオナルド
次にエジムンド >>67
覚えてる
追加招集の人だろ
大きいロナウド(ロナウダン)
豚のロナウド(ロナウド)
小さいロナウド(ロナウジーニョ)
ポルトガルのロナウド(クリロナ)
ってサッカーはロナウドだらけ何だよな 当時はFWとかMFの選手をサイドバックに急遽コンバートする事が結構あったな
都並の代役も三浦泰だったし ストイコビッチ&マスロバルのユーゴスラビア勢のスーパープレイ連発も凄かったよな
94年W杯にユーゴスラビア代表が存在してたらかなり強かったんじゃね? >>70
ヤスは読売クラブ時代にサイドバックもやってたのよ 右コーナーキックを右足アウトサイドで
速くて曲がって落ちるボール蹴って味方の頭に合わせて
ゴールをアシストしたときはマジで興奮した
翌日すぐ真似したのは良い思い出 右足から繰り出すキックの種類が豊富だった、つーか質も異常だった
綺麗にバックスピン掛けて味方に合わせるサイドチェンジは憧れたわ
それでいてボランチで優しいパスのアシストを何度もFWに送ってた >>71
日中韓が一緒に代表チーム組むとかまとまるわけない ジョルジーニョとダニエル・アウベスってどっちが凄かった? >>20 >>36
アホかw MFとしてはテクニックも普通にジーニョ、マジーニョ>>>>>>ジョルジーニョ レオナルド
特にジーニョはフリューゲルスでもプレーしたから、レオより上なのは日本人でも知ってる筈 >>77
その時代に生きたジョルジーニョと今の時代の選手を比べるのはナンセンス
同じ時代に現役なら、、、タイプが違うからなんとも言えん笑
戦術も選手も進化してるしねぇ
個人的には昔の選手より今の選手のがうまいし強いと思ってる レオナルド、ジョルジーニョ、ジーニョ、サンパイオ、エバイールが一緒の試合が見られたとか豪華な時代だった >>78
う〜ん、鹿島対横浜F見たときはそんな差は感じなかったな。パルメイラストリオは豪華だったけどルックスのせいかレオナルドの方が華やかだったw >>78
レオナルドって、PSGやミランでも活躍して一時期はブラジル代表10番背負ってた選手
明らかにレオナルドの方が格上 レオナルドは2年くらいしかいなかったけどジョルジーニョは長かったな >>84
違うね ワールドカップじゃ18番で、ジュニーニョ(骨折で落選)やジオバンニの控えに過ぎなかった
決勝でジダンに決勝ヘッド許した戦犯 カカとかリバウドとか、レオナルドより更に上の選手はいるとしても、レオナルドがジーニョより下ということはありえない
海外の実績がまったくない サンパイオも無い 98大会後デポルティボ・ラ・コルーニャ移籍したが、そこに居た非セレソンなエメルソンからポジション奪えず、すぐ追い出された程度のボランチ >>69
ジュニーニョやマルセリンニョも多いな。ここらへんは地名で分けてるね ジーニョもサンパイオもヨーロッパでの実績がない
代表での活躍は似たようなものとしても、クラブでの活躍は大きく差がある この人がセレソンだと右サイドバックなのかよって驚いて、
実際にチームを見て納得せざるを得なくてもう一回驚いた レオナルドの左SBて大して効果無かった
キープ力は有るけどアシスト0 足も実は速くない 守備力も
本来のレギュラー・6番ブランコが急速に衰えたのがレオナルドが先発なった原因
それでもブランコは準決勝から登場し、直接FKで決勝ゴール挙げたw レオナルドはコパアメリカで10番つけてエースとしてプレーしてる
主力が抜けた大会だったとはいえ、この実績は大きい
クラブでの実績は言うまでもない こんな時代にレオナルドアンチとか余程のブサメンなんだろうな ジーニョはキャリアのほとんどはブラジルだったな。すごい選手なんだけど地味な存在だな。
W杯でも94年のときはロマーリオとベベットばかり注目されてたし >>95
いやいやw
圧倒的な存在感だったよ、嘘乙。
両サイドがこれだけ攻撃的なSBって過去になかったから。
右からも左からも相手を支配できるっていう脅威は
誰の目にも明らかだった。 >>93
94年アメリカW杯では、前年のトヨタカップを制覇したサンパウロのキャプテンで南米最優秀選手にも輝いたカフーが、ジョルジーニョからポジション奪えんかったからな 現役ばりばりで活躍してるバイエルンのキャプテンそのまま引っこ抜いてきたんならJ史上最高の市場価値の選手じゃないの?
イニエスタとかは歳食ってから来てるしな ジョルジーニョの頃って、移籍金どうなってたんだろな >>102
いま考えるととんでもない事したな。W杯優勝メンバーの現役セレソンをバイエルンミュンヘンから獲得って。
そりゃ日本代表も移籍したくなるw >>99
アメリカ戦でラモスへ肘打ちして、顔面骨折させた時だけ妙に存在感有ったな PSGのGM時代も相手選手に肩ドン!したり、カスだよレオナルドは
>両サイドがこれだけ攻撃的なSBって過去になかった
実際は94大会でアシスト/ゴール共ナシ 実績はレッドカード退場w >>97
>>106を見ればわかるとおりピノキオだよ
そろそろ死ねばいいのにな >>106
脅威になってたから肘打ちレッドが痛かったわけだろ。
自分の主観だけであいつは糞とか言うなら
サッカー語るなよ。家で日記書いとけよ。 当時の日本サッカーのレベルからすると衝撃的なサイドバックだったな
コイツを見るために鹿島の試合観てた サイドを駆け上がっての的確なクロス
これについてはまさに職人だったな 当時現役セレソンは何人かいたけど、レオナルドの場合は年齢的に絶頂期にJに来たからな >>11
レオナルド、ストイコビッチ
当時はまじでこのレベルの選手が日本にくんの?みたいな移籍が多かった
いまの中国スーパーリーグみたいな感覚よ
ただ、当時の日本人はその凄さ価値に気づいてなかった 鹿島ではボランチやった
もう神だよ
攻撃はすごい、守備はすごい、あっ危ない!とっていう瞬間には必ずどこかから現れて救ってくれる ジョルジーニョが前目のボランチをやって
左右の名良橋と相馬、前四人のマジーニョ柳沢ビスマルク増田を舵取りすることで
もう一人のボランチ本田はCB二人のサポートと中盤底での草刈りに専念できた
これが当時の最強鹿島の肝だった
FWの控えも長谷川真中黒崎と揃ってたし
442と3322の使い分けはつけこむ穴が見当たらなかった >>77
バルサで247試合も出場し、ブラジル代表キャップ114のダニエウ・アウヴェスはブラジルのレジェンド
右サイドバックとして世界の歴代でも上位。時代的には同年齢のラームと双璧で他を圧倒している
ジョルジーニョなんか経歴的に並
凄さで言えば全く比較にならない アウベスのが上とは思うけどそこまで経歴的に差はないだろ
ジョルジーニョもバイエルンミュンヘンの不動の右SBで優勝貢献してるし普通に歴代ブラジル右SBでも上位に入ってるよ
何よりアウベスが達成してないW杯優勝してるしな >>108
脅威に感じたのはレオナルドで、ラモスに対してだ テクじゃ振りほどけないからって肘で顔面打ち
素晴らしい左SBだよレオナルドはw >>118 >>115
ストイコビッチは来日当初はいまいち実力を発揮できなかったな。
レオナルドはヴェルディ戦で柱谷とか翻弄してたな。ここまでレベル差があるのかと 相手のクリアミスがジョルジーニョの目の前に来たのをそのままダイレクトで前線の味方にスルーパス通したのは驚いた
Jでも海外リーグでもあんなパスは滅多に見たことない バッジョがビエリにそれ通してた
98大会のvsチリ でのゴール >>115
怪我とマルセイユ事件で
半年のつもりで気分転換に来た国にあんなに長く
本人もそこまで気に入るとは思ってもなかったみたいだな >>115
既にジーコの時点でちょっとでもサッカー知ってるヤツは
『ジーコ?ジーコってあのジーコ?なんでジーコが日本に来るの?』
って感じだったよ。 全盛期ではないにしろ、リネカー、スキラッチなんか来てたしな
エムボマの身体能力にも驚かされたし、あと何故かイルハンが女に人気あったよなw リネカー・サリナス・ミカエル・ストイチコフ・チキとバルサOBが結構いた時代が今や信じられない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています