他球団で活躍した外国人選手を次々に獲得するイメージが強い巨人だが、かつては自前でスカウトした選手を中心に補強していた。
しかし、自前でスカウトした助っ人外国人が軒並み思ったような結果が残せなかったために、2000年代前半から現在のような補強方針になったといわれている。
では、かつての巨人の助っ人は本当にそこまでひどかったのだろうか? 今回は、特に失敗が多かったといわれている「1990年代の巨人自前助っ人」を振り返ってみた。

クロマティ以降は期待どおりに活躍できない助っ人ばかり

巨人史に残る名助っ人といえば、NPB通算171本塁打、通算打率.321の成績を残したウォーレン・クロマティが挙げられる。
チームに多大な貢献を果たしたクロマティは1990年オフにチームを離れることになるが以降、巨人は長らく助っ人補強で大当たりを引くことがなくなる。

クロマティがいなくなり、新たな大砲候補として1990年に補強したマイク・ブラウンが1シーズンで退団していた巨人は、1991年にMLB実績のあるフィル・ブラッドリーと、マイナー経験のあるヘクター・デラクルーズを獲得した。
しかし、デラクルーズはまったく打てずに7月に退団。代わりにデニー・ゴンザレスを獲得するも、こちらも打てず守れずで翌年4月に解雇されている。
期待されたブラッドリーは、打率.282、21本塁打、70打点と及第点の活躍をするも、日本の野球になじめず1年で退団してしまった。

1992年はMLBから俊足巧打のロイド・モスビーを獲得。この年は96試合に出場して打.306、25本塁打、71打点とチームに貢献し、翌シーズンも契約を延長した。
一方、投手陣ではヤンキースでプレーしたチャック・ケアリーを迎え入れるも、3勝5敗1セーブと期待された活躍ができずこの年のオフに退団している。
また、1992年は将来性を見込んで若手のヨーキス・ペレスも獲得しているが、こちらも思うようなプレーができず早々に退団した。

1993年シーズンは、かつてモスビーと同僚だったジェシー・バーフィールドを獲得した。
モスビーとバーフィールドの助っ人コンビでの活躍が期待されたが、モスビーはケガが原因で不調に陥り、バーフィールドはチームトップの26本塁打を放つが、肝心な場面で打てずに低迷。
テコ入れのためにシーズン中にミッキー・ブラントリーを獲得するも、こちらも鳴かず飛ばずで助っ人3人はそろって退団することになった。

MLB実績のある選手を高年俸で獲得するも……

1994年の巨人は、MLB経験のあるピッチャー、ジミー・ジョーンズと、巧打が魅力のヘンリー・コトー、さらには走攻守に優れたダン・グラッデンと3人の助っ人を補強した。
このうちジョーズンは、先発4番手として7勝を挙げて早々に残留決定。しかし、コトーとグラッデンはともに2ケタ本塁打を記録するものの、
期待されたほどの活躍ができずに退団となった(コトーは契約保留だったが翌年の助っ人補強との兼ね合いで退団)。

1995年はMLB実績のあるシェーン・マックを2年8億円の高年俸で獲得。この年120試合に出場して打率.275、20本塁打、52打点とまずまずの成績を残し、翌シーズンの期待も込めての残留となった。
一方、前年に先発の一角として活躍したジョーンズは、思うような投球ができずに退団している。

1996年は、投手ではバルビーノ・ガルベス、チョ・ソンミンを獲得。野手では1億円を超える年俸でジェフ・マントを獲得した。
ガルベスは乱闘を起こすなど問題があったものの、16勝でリーグ最多勝利を記録と活躍し、チョ・ソンミンはこの年、一軍登板はなかったが将来性を見込まれて残留。
ガルベスは2000年まで、チョ・ソンミンは2002年まで巨人に在籍することになる。ほかにも、シーズン中にリリーフ候補としてマリオ・ブリトーを獲得しているが、こちらは後半戦で不調だったことから解雇されている。

野手陣は、残留したシェーン・マックが打率.293、22本塁打、75打点と前年を超える成績を残すも、高年俸がネックとなり退団。
もう一人の高年俸助っ人のジェフ・マントは、ろくに試合に出ることができずに4月に早々に退団。在籍期間はわずか3カ月だった。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200422-00000003-baseballo-base&;p=2
4/22(水) 11:01配信