2020年4月18日掲載


にっぽん野球事始――清水一利(10)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第10回目だ。
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 野球に限らず、ラグビーやサッカーなどのスポーツ全般、さらにはスポーツ以外でも早稲田、慶應の両校が相対する時には「早慶戦」と呼び、新聞記事などでもそういう表記を用いるのが一般的になっている。もちろん、慶應側はいまも昔も「早慶戦」と世の中が呼ぶことをよしとせず、あくまでも「慶早戦」と呼んでいるようだが、これは「早稲田よりも慶應が下にあることが許せない」という気持ちの表れなのかもしれない。
 しかし、慶應サイドの人たちが、もし本気でそう思っているのだとしたら、それは大きな間違いだといわざるを得ない。というのは、もともと日本では二者を並べて論じる場合、弱いほうや小さいほう、つまり格下のほうを先にするのが礼儀とされているからである。したがって、慶應側からすれば、慶早戦ではなく早慶戦というほうがいいのである。
 1903(明治36)年に第1回早慶戦が行われた時、早稲田から慶應に試合を申し入れる書状が送られた。その際、書状が慶應を立てる内容のものになっていたことからも分かるように、当時、早稲田が新興の弱小チームだったのに対して、慶應は一高と並ぶ強豪チームであった。誰の目から見ても慶應のほうが早稲田よりも格上のチームであることが明らかであり、早稲田自身もそれを認めていたのだ。
 そのため、当時の人々は早稲田、慶應両校の戦いに際して、慶應に敬意を表する形でごくごく当たり前に早慶戦と呼ぶようになり、次第にそれが定着していったのだろう。
 それでは、早慶戦という呼び方は、いったいいつごろ定着したのだろうか? 当時の新聞紙上で検証してみると、第1回の早慶戦を報じたのは2紙のみで、1紙は「慶應義塾対早稲田大学野球試合」、もう1紙は「早稲田大学 慶應義塾 対抗野球試合」となっている。ところが、この表記方法はあまりにも長すぎて、記事の中で使うにはいささか勝手が悪かったに違いない。

     ===== 後略 =====
全文は下記URLで

 https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04180557/?all=1