1969年、野村克也さんが選手兼任監督を務めていた南海にドラフト2位で入団したのが、後に40歳で本塁打王・打点王のタイトルを獲得し、「不惑の大砲」と呼ばれる門田博光氏(72)だ。1年目から開幕2番ライトで起用され、2年目は3番ライトでレギュラーに定着。その年に打率3割、31本塁打、120打点を記録して打点王を獲得した。新人時代から野村さんの薫陶を受けた門田氏だが、「当時は怒鳴られてばかりでした」と振り返る。

 * * *
 野村さんが亡くなる日が来るなんて、想像もできませんでした。カネさん(金田正一さん)もそうですが、あの時代の人はスーパーマンみたいなイメージですからね……。

 野村さんはよく、江本(孟紀)、門田(博光)、江夏(豊)の3人の名前を挙げて「南海の3悪人」と言っていましたが、ボク以外の2人はピッチャーで、叱られることはなかった。バッターのボクは本当によく怒鳴られましたよ。

 ボクが南海に入団した当時は、今の選手たちのように何度もチャンスを与えられることはありませんでした。1年目の時に野村さんから「スイングは速いから、1回だけチャンスをやるわ」と言われたことをよく覚えています。「1回だけですか?」と聞き返したら、即座に「1回だけや」と返された。

 それで開幕から2番ライトのスタメンで使ってもらって、それなりのペースで打っていたんですが、走塁が下手で帰塁した時に肩を脱臼してしまったんです。1か月半ほど離脱しなくてはならず、1年を通して活躍はできませんでした。そうして2年目を迎えたボクに、野村さんは「2回目やけど、もう1回だけチャンスをやるわ。これでアカンかったら悪いけど社会人野球に戻ってくれるか」と言うわけです。

 その2年目にそこそこの成績(打点王のタイトルを獲得)を残せたことで、3番ライトで使ってもらえるようになりました。野村さんは当初、ボクを2番バッターに育てたかったようで、1年目はブレイザー・ヘッドコーチからマンツーマンでバントの指導を受けましたが、それまでのボクの野球人生にバントなんてなかった。1週間が過ぎたところで、ブレイザーが「オーノー、ギブアップ」と叫んだんです。当時は英語がわからんかったが、どうやら降参したらしいというのはわかりました(苦笑)。

 その後、小細工のいらない3番で使ってもらえたわけですが、4番は野村さんですから、一発狙いではなく塁に出ることを最優先に考えるよう指導されました。野村さんから直々に「大振りをやめろ」と怒られたり、「ヒット狙いなら打率4割も狙えるぞ」と持ち上げられたりもしました。

 野村さんは自分以外の一流選手を通じた指導で、ボクに大振りをやめさせようとしたこともありましたね。巨人とのオープン戦の時に王(貞治)さんのところに連れて行かれて、「ヒットの延長がホームラン」というアドバイスを受けたし、オールスターの時は東映の大杉(勝男)さんから「オレは強振していない」と指導されました。

 それでもボクは「ホームランの打ち損ねがヒット」という考えを貫いた。考えを改めるどころか、逆に、野村さんと王さんから説得されたことで、この2人の通算本塁打の記録に割って入ってやろうと考えるようになったのです(門田氏の通算567本塁打は王氏、野村氏に次ぐ歴代3位)。

 そんな経緯があるので、とにかく野村さんには怒鳴られてばかりでした。阪急・山田久志のアンダースローから浮き上がってくる球をアッパースイングしていると、ネクストバッターズサークルから「上からかぶせんかい!」と野村さんの怒声が飛んできた。野村さんの野球理論に対して、素直に縦に首を振らなかったから、「3悪人」の一人に挙げられたのでしょうね。

2/28(金) 16:00 Yahoo!ニュース 16
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200228-00000017-pseven-spo

https://i.imgur.com/eKYHnbm.jpg
https://i.imgur.com/Ckq3kXG.jpg