実際にあった!掛布雅之と門田博光のトレード案、もし門田が阪神移籍だったら
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南海・ダイエーホークスの主砲として長きにわたって活躍した門田博光氏(71)。彼が「野球人生の分岐点」に挙げたのは、右足アキレス腱断裂から復活し、41本塁打を放ってカムバック賞に輝いた1980年シーズンのことだった。何が起きていたのか、門田氏に聞いた。
* * *
アキレス腱を切ったのは31歳の年(1979年)。キャンプ中のケガだったので、シーズンを棒に振りました。
翌年もケガの怖さが残った。そこで“ホームランを打てば全力で走らなくていい”という発想で、長打狙いに切り替えたんです。トレーニングを重ねて、重いバットが振れるようになった時期と重なったことも大きかった。
それでカムバック賞を受賞した1980年オフ、阪神の掛布雅之とのトレードが報じられました。球団に阪神ファンからの抗議が殺到して流れましたが、水面下では本当にあった話だった。
当時はパ・リーグが不人気だった。南海では、“これだけ打ってもスポーツ紙で活字にならんのか≠ニ思ったこともありましたし、40本塁打を打って“ちょっとは給料が上がるかな”と思っても、雀の涙ほどしか上がらなかった(笑い)。人気球団でやっていたら……自分を試してみたかったという気持ちもあります。
ただ、当時は32歳とまだ若かった。マスコミが踊れ踊れと報じるばかりに、自分を見失ってしまったり、プレッシャーに負けてしまった選手もたくさんいた。僕の性格だと踊らされないような気もしますが、浮かれてしまって、あれほど体をいじめぬくような練習量はこなさなくなっていたかもしれません。
他の選手は打つ、走る、守るでお金をもらっていたが、ケガで足が使えない僕は打つだけでお金をもらっていた。アキレス腱断裂がなければ、DHのない阪神のトレードに喜んで応じていたと思います。
●かどた・ひろみつ/40歳になった1988年に44本塁打、125打点で打撃二冠に輝き「不惑の大砲」の異名をとる。通算567本塁打、1678打点は歴代3位。2566安打は歴代4位。
※週刊ポスト2020年1月3・10日号
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200101-00000015-pseven-spo >>578
オーナーや球団フロントは大学出だから、
監督なんかも大卒を使いたがるのよ。
勉強できなくてもキャンパスの空気を吸ってるだけで、
なんか違うんだろうよ。 >>649
江夏「星野は二流投手」
「星野は田淵を連れてナベツネ詣をして自分から巨人監督にしてくれと誓願した」
星野のことを根に持っていたのかw >>631
巨人のソレは生え抜きってよりも純血か純潔って感じだね >>606
巨人は原と江川だけはプロテクションかけたみたいね >>598
西本監督もリーグし優勝した年に正遊撃手と正捕手を放出して、
別の遊撃手と捕手を獲得しているねどね。 >>604
田淵は頭部死球の治療薬の副作用で腎臓を悪くして肥満体質になり、
左耳も聞こえなくなったんだっけ?
大学の後輩の江本に「死球で走れなくなった」とボヤいていたとか。
キャッチャーフライは音で反応して方向を察知するから、
片耳が悪いのはハンデだな。 >>647
南海は格差が凄いんだよ
一軍選手はそこまで薄給だったわけじゃない >>638
その2人は他11球団基準ならまごう事なき外様も外様
阪神が異常なだけ >>641
南海は拒否った奴の代わり要求できんかったの?
3対4なら南海の顔も立つわけで >>650
オーナーとか球団社長の学閥もあるよなあ 鈴木草の超大豪邸をみたら当時の不人気パ・リーグの球団でもトップクラスは相当貰ってたのがわかる
鈴木草の超大豪邸なんか当時はバブルだったし10億はくだらないはず
本当の年俸は3億とかだったろうな 中畑と山内孝徳の交換トレード話決まっていたら
福岡移転時 中畑が新球団の目玉になってたか
それ以前には山内孝徳と斎藤雅樹+鴻野淳基のトレード成立寸前も
結局立ち消えという話もあったな
山内は中畑とのトレード話を聞き激怒し「だったらパ・リーグに出してくれ
俺を裏切ったホークスの打者を倒しに行くから」と球団に凄んだそうだが >>661
慶應出の正力亨オーナーの時に、上田、大森と慶應の選手をドラフト一位指名していたよね
慶應の志村もドラフト一位指名したけど、断られてサラリーマンになったが
まあ、あの頃は監督も慶應の藤田だが >>664
慶応の志村は指名とかしてないだろ
巨人は川崎憲次郎のくじが当たっていたらよかったかもしれんなって年 >>662
関西はバブル期も比較的、地価が安いのでは?
鶴瓶の豪邸は日本の芸能界一だと、不動産好きの樹木希林がわざわざ見に行ったとか
町中でなく少し山のほうに行けばでかい家も建つとかなんとか
紳助の家もサッカーコート付き
東京だとタモリやたけしですら、大した広さでもなく >>665
ああ、そうか
スカウトの段階で断ったのか
でも一位指名候補と言われていたな >>655
リーグ1の強力打線の阪急に大杉張本を擁しながら
貧打に苦しむ東映
阪本敏三の獲得で東映の貧打も解消したので両者
にプラスのトレードになった >>670
紳助じゃないんだから 今はハワイとかだっけ >>647
大阪球場のレフトスタンドにあぶさんの看板広告を出して、南海の選手が大阪球場で
代打ホームランを打ったらあぶさん賞として金一封を水島が出してたこともあった。 >>666
1988年の値上がり率は東京が一位から十位をほぼ独占、
よく平成になった1989年は一位から十位をほぼ独占
鶴瓶とかクロードチアリとか、甲陽園とか苦楽園は阪神間のど真ん中の芦屋西宮の有名なところ 3:「西宮七園」・住宅地の開発 〜 西宮・宝塚 | このまち ... - 三井住友トラスト不動産
「西宮七園」・住宅地の開発
大正から昭和にかけて、西宮周辺にあったリゾート地は、住宅地・別荘地に姿を変えていった。
「甲陽園」「甲東園」などは、甲山に名称の由来があり、「苦楽園」「昭和園」なども開かれた。
また、阪急は神戸線・今津の「西宮北口駅」付近で開発を行い、「阪急西宮球場」などが誕生した。
ラジウム温泉で賑わった「苦楽園」 その後は住宅地に
ラジウム温泉で賑わった「苦楽園」 その後は住宅地に
「苦楽園」は、明治後期に「碌礬(りょくばん)泉」が発見され、道路開削や温泉浴場の開設が行われた。
1911(明治44)年には、大阪の実業家、中村伊三郎により別荘地として開発された。「苦楽園」の名称は、中村家の家宝の瓢箪「苦楽瓢」から名付けられた。
その後、「六甲ホテル」が建設されるなど、総合温泉リゾート地になり、大隈重信や谷崎潤一郎などの要人・文化人も訪れた。
このラジウム温泉は1938(昭和13)年に枯渇し、リゾート地としての役割は終わったが、その後は住宅地として開発され、現在では「西宮七園」の一つに数えられる高級住宅地となっている。
【画像は1915(大正4)年】 「日本一の長者村」 財界人たちが邸宅を構えた住吉村 ー 2015年11月号|神戸っ子 ...
神戸っ子アーカイブ あの時の神戸2015年11月号現在の住吉山手9丁目付近にあった水車群
「日本一の長者村」 財界人たちが邸宅を構えた住吉村
南斜面で水に恵まれた住吉エリアは、太古から居住に適した土地だったようだ。
現在のJR住吉駅一帯は弥生時代から近世にかけての複合的な遺跡、住吉宮町遺跡で、古墳や集落の形跡が確認されている。
飛鳥時代には律令制でここに住吉郷がおかれた。
戦国時代までには村ができ、太閤検地のあとは豊臣家の直轄地となる。江戸期には農業のほか、水車業や御影石の切り出しも盛んだったらしい。
明治7年(1874)官営鉄道が開通し、住吉駅が開業。その後、明治後期になると良好な環境に富裕層が着目し、住吉は郊外住宅地として発展していく。
明治33年(1900)頃、朝日新聞の創業者の一人、村山龍平が数千坪の土地を取得。
船場の商人たちは「正気を失ったのではないか」と唖然としたそうだが、村山はここに豪邸を建て、その地は現在香雪美術館になっている。
これが開発の嚆矢でもあり、郊外住宅地の黎明ともいわれている。
村山に続いて住友銀行初代頭取の田辺貞吉、住友家の総理事の鈴木馬左也も広大な土地を取得。
さらに明治40年(1907)頃に阿部元太郎が住吉川沿いの観音林、反高林の土地を開発、住宅地の譲渡をおこない、東洋紡績の社長となる阿部房次郎が取得している。
その後も住友本邸、東洋紡社長の小寺源吾邸、鐘紡社長の武藤山治邸、
日本生命社長の弘世助三郎邸、野村財閥の野村徳七邸、
大林組社長の大林義雄邸、乾汽船社長の乾豊彦邸、武田薬品社長の武田長兵衛邸、
伊藤忠の創業者の伊藤忠兵衛邸、
岩井商店主の岩井勝次郎邸、東京海上社長の平生釟三郎邸などが建ち、
住吉村は「日本一の長者村」の名をほしいままにした。
住吉川の東岸は本山村になるが、
ここにも日立鉱山社長の久原房之助が一万坪超の土地(現在のオーキッドコート一帯)に洋館、和館、宴会場まで設け、フラミンゴを飼っていたという逸話も残っている。
ちなみに、当時は富裕層のコミュニケーションの場として茶の湯が盛んであり、これらの大邸宅の多くには茶室が設けられていた。
住吉の住人たちは社会基盤も整備していった。
阿部元太郎、田辺貞吉、建築家の野口孫市はコミュニティ醸成のため「観音林倶楽部」を設置、ビリヤードや散髪もできるクラブハウスを設けた。
さらに明治44年(1911)に甲南幼稚園を開園し、やがて平生釟三郎の尽力もあり甲南学園へと発展する。平生は病院の必要性も感じ、甲南病院を開院した。
住吉は今なお関西屈指の人気の住宅地だが、その基盤は先人たちによって築かれたのである。
住吉村は六甲山から流れる急流を利用した 水車の一大産地であった 住吉村には多くの財界人が邸宅を構えた。写真は住友家敷瓦
財界人たちは邸宅に茶室を設けた旧乾邸は、モダニズム建築を今に伝えるお屋敷街の面影を残す御影の街並み >>673
よく平成になった1989年は一位から十位を桃山台など北摂あたり、大阪が独占していた
東京の港区あたりも入っていたと思う >>678
>>666
まぁ値上がり率と地価、路線価とかは違うけどね
鷲林寺とかは坂道というだけで神戸大阪から市街地でつながってるという意味で、
人口密度高く、通勤に便利なところ >>669
こういう場合「リーグ1」ではなく「リーグ一」と書きます
日本1とか世界1とか書かないでしょう? >>681
リーグーってなんや?リーグ1で良いやろ >>662
門田も実は球界トップの年俸を貰ってた説あるもんな
南海は手取りの年俸で発表してたっていう珍説もあるw ゴジラ松井、福留そして大谷を見ていると
掛布は早い段階で外野に転向させてたら
事実よりも3、4年くらいは長くプレーできていたと
思ってしまう ノムは監督料込みで南海の頃に一億円超えてたとかな
王長嶋が公称六千万円とかの頃に 漢数字の「一」は横書きだと音引きと紛らわしいので、
俺も敢えて洋数字の1を使うこともあるわ 掛布がブレイクした1979年の打撃成績を見たけど
HRを48本打っても打点が95ってショボくないか?
真弓とか藤田平の出塁率が低かったのが影響してるのかな。
打率は327の2位でミヤーンが規定打席ギリギリで首位打者ってのも不運だな。 >>686
南海ホークスはただのドケチ球団だからね
金はあるけど使わないってだけ
その点が太平洋クラブ(クラウンライター)ライオンズ
とは違う >>688
79年の鬼平は4月の序盤で左太ももの重度の肉離れ(というより筋断裂)で離脱し
残りシーズンを全休してた。 全打席ホームラン狙い
ゲーム状況、チーム無視
当時のパリーグだから
好き放題やれた >>688
当時の掛布って三番が多くなかったっけ?
一番真弓が.260程度の荒っぽいバッターで、二番が榊原、四番がラインバックだった記憶 アナル落合ですらセリーグ来たら本塁打数が20本減ったからな
門田でも厳しかっただろう >>648
オリオンズ 原or中畑+投手1人
ジャイアンツ 松本or篠塚or角 + 投手1人(水野が候補にあがっていた)
これでは釣り合わない。 >>693
大分数字減ったよね
ロッテの頃のイメージ強かったからな 当時のレベルの低いパ・リーグで活躍した選手だからセ・リーグでは通用しなかったろうね >>658
プレイングマネージャーだったノムが飛びぬけて高いだけでは、と。 >>662
玉木某によると「芦屋の本当の金持ち基準でいうと、豪邸というにはやや貧弱」らしい>草邸 つべで門田が35歳の時の動画見たけど老けすぎでワロタ
今のアラフォー嵐のお父さんと言われても信じれるくらい貫禄あったわ >>649
星野も先輩の板東英二をばんちゃん呼ばわりしてたのにな
ばんちゃんコーヒーこうてきてとかw >>664
ジャイアンツは当時左の先発がいない(期待されていた宮本が二軍で苦闘中)ので、
慶応大の志村に声かけて断られ、
次に東京ガスの田辺に声かけたら東京ガスに断られて指名できなかった。
※田辺はホエールズがダメ元で6位指名したら1年後に入団。 南海は定岡兄とコウノ弟または定岡弟とコウノ兄をトレードして兄弟揃えようとした >>688
1980年オフに飛びすぎるボールが禁止されてるけど
セ・リーグでも使ってたんだろうと思わざるを得ない
異常なチーム本塁打数だね >>692
セカンドは中村勝広、榊原良行、加藤博一で競争
セカンド加藤で榊原がスタメン落ちすると
真弓 加藤 掛布 ラインバック 佐野 スタントン 竹之内 若菜
という阪神ライオンズ状態だった 田淵の大型トレード:西武と阪神の両方がプラスになった
落合の大型トレード:中日が得した >>555
それは江夏が言ってるだけ
73年は優勝記念グッズも作ってるのに有り得んわ >>689
難波再開発
高野線複線化
林間田園都市の分譲
関空バイパス線の建築
80年代の南海はカネがかかるプロジェクト続きでホークスどころではなかった >>690
だから81年に首位打者を獲った年にカムバック賞だったのね。
鬼平が打率358で2位の篠塚が357のハイレベルな争い。
3位の大杉が343で4位の掛布も341だから凄い年だ。 >>695
まあ、当時は落合の年俸が払えるのは巨人だけだからどこも落合なんか取りに行かないだろという奢りと
ロッテから打診ってのもあって、巨人は足元見てただろうからねえ
星野が巨人にだけは入れさせないってことで、あんな大型トレード成立させたけども 落合は当時33歳でロッテは「あの5年位」と想定していたと思う
皮肉な事に25歳の牛島が3年でダメになって落合は10年働けた >>708
林間田園都市は確実に負の遺産になるよなあ
近鉄沿線でも名張は死にかけらしいし >>712
ウシジマくんは小宮山悟らの先生になってくれたのが
救いだった 左打者不利の浜風が吹くのに左ばかり揃える阪神
昔も今もアホ過ぎ >>693
落合はセ移籍1年目もオールスターまでは21本打って40本台のペースだっのに
オールスター後はなぜか数本しか積み上げできずに30本を割った >>567
鳥谷はスーパースターだぞ(※阪神では) ドラフトの目玉が巨人他を蹴って関東から来てくれたこれだけでそら鳥谷は大スターよ >>715
揃えたくても右の大砲なんかそもそも市場に出てくることが滅多に無いんだぞ。
大山や中谷や江越など、自前でどうにか育てようとはしているけど中途半端どまりで、育て切れてないだけだ。 >>234
なんだかんだで大阪都心部にあるからな
それと清原入団でパの観客動員がグッと上がった
特に南海は87年は9月に首位に4ゲーム差に接近してあわやという事もあって観客が増えた >>565
阪神に大暗黒時代があったのを知らないのか?
阪神が全国区になったのは2003年代以降だな >>691
「チームの勝敗なんて俺には関係無いしどうでも良い、
ホームランさえ打てればそれで良い」
残した数字は凄いけど、こんな感じだから、
指導者にも呼ばれないんだろうね。 >>595
あぶさん読んでたら、あぶさんの隣は母子家庭で苦労してるカコの部屋だし、南海の春キャンプの晩飯がちっこい粕漬メイン… >>624
阪神の池内よく覚えてるわ
衣笠にデッドボール与えて、キレた衣笠がマウンドににじり寄ったら、ダッシュでベンチに一目散逃げた試合は面白かった たとえば1点差で2アウト3塁の場面でホームラン狙いのフルスイングやられたらベンチはしらけるかもな
それをやり続けたのが門田 >>722
全国区になったのは85年Vからだよ。
あれ以降は最下位でも客は入るから暗黒時代になった。 >>707
しかし相性通りにD戦に上田、G戦に江夏を先発にぶつければどちらかは勝てたろうに
なんで逆にして二つともおとしたんだろうな>金田正泰 >>724
カコちゃんが景浦の初年俸更改の席に入り込んで「やすたけ、5000万もらえって(景浦の初年度年俸は100万)」と
煽ったりするという牧歌的すぎる球団。 >>729
五千万円って王や長嶋とか当時のトップクラスの年俸だね ノムの本によると南海の高畠コーチは団地住まいで、
目をかけた若手を狭い団地に下宿させていたとか。
そんな中、年俸一億円で趣味の悪い緑色のキャディラックに乗っていた野村 >>726
野村が言うには張本も酷かったらしい
ランナーが盗塁するとバッティングの邪魔だって
自分の打席の時には走らせなかったとか
守備は真面目にやらずにセンターにまかせっぱなし
そんな風だったから指導者として誘いが来ないって >>733
> ランナーが盗塁するとバッティングの邪魔だって
自分の打席の時には走らせなかったとか
これは野村、落合、中村紀洋とか多くのスラッガーがやっている。
中村紀洋がこれをやって中畑監督の怒りを買ったときも、
野村は中村を擁護していた。
「監督は四番を信用して、四番の打席でサインなんて出すな。
四番を自由に打たせろ」とか。
逆に清原は辻、平野、秋山なんかの盗塁をアシスト。
それでタイトルが取れなかったとかボヤいていた。
森監督が秋山に「盗塁しなくていいよ」と言ったとか。 >>728
フロントが甲子園で最終戦やって客入れて儲けたかったんだろ。
でもそんな横綱相撲を阪神がやれると思ってたのが間違い。
8年連続巨人が優勝してるんだぜ?
あんたらはチャレンジャーだろうがw >>722,>>727
「暗黒時代」の客入りは悪かったよ
野村時代ですら最下位が確定的になると閑古鳥が
鳴いてた >>734
秋山幸二に対してはほぼ強制だよ
1990年に51盗塁記録してるのに翌年は21盗塁
その翌年は13盗塁だし両者の関係は年々悪化
そして1993年オフに衝撃のトレードが発表された
ダイエー1年目こそ26盗塁を記録したがその後は
腰痛悪化で尻すぼみに >>736
客入り悪いって平日は少ないってぐらいだろ。
本当に客入り悪いのは巨人戦以外は数千人だった時代のこと。 >>702
田辺は87年の指名だから、志村は当時3年生。 >>3
科学的に太ってる方がホームランが出やすいらしい。 >>597
大嘘。
81年の4番はホワイト。新人の原は主に6番。
中畑が4番になったのは82年からだが 荷が重く、
終盤の優勝争いでは結局ホワイトが4番に戻ってる。 >>741
違うわ。黒字は74年からだ。
それまでは巨人戦しか客が入らなかった。
でも阪神電車はそれで儲かってたから本社的にはOKだった。 >>739
プロ野球の黄金期は実は巨人のV9時代じゃなく
1980年以降なんだよね
1970年代は19時半から21時までしか放送してない
19時から時間延長放送になったのは1980年代からだし
動員も1990年代から本拠地移転してパが大幅増だしね >>742
そりゃそうだエネルギーは11/2MV2乗だから体重が思いほうが打球は飛ぶ >>743
日本シリーズでも5戦目まで4番中畑だしシーズン中
も多くの試合で4番中畑だったよ
日本シリーズではこの年打率.357を残した篠塚利夫
を4・5戦でスタメン落ちさせて平田薫を大抜擢してるし
藤田監督すげえよw >>744
阪神は球団単体では1984年までずっと赤字だぞ。
対巨人戦以外の平日はアルプス席閉鎖してたのを知らないのか?
そんな状態で黒字になんてなるわけ無いだろが。
赤字なのにずっと球団続けてきたのは観客の大部分が阪神電車に乗るからだ。
南海が身売りしたのは逆に観客が南海電車に乗ってなかったからだ。
大阪球場は南海以外にも鉄道がたくさん走ってる場所にあったからな。 >>743
1982年の中畑清は本塁打こそ倍増したけど打率
は悪化した
おそらく長打狙いで気負ってバッティングを崩した
んだろうね >>746
君はサンテレビを知らない非関西人だろ?
サンテレビが1970年代から阪神のほとんどの試合を最初から最後まで中継してきたんだよ。
アナログ時代はそれが兵庫県や大阪府の大部分で受信出来たんだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています