車もカネも女も思いのまま――。
慢性腎不全のため12日午前7時40分に81歳で死去した俳優の梅宮辰夫さんを悼む声が芸能界の内外で広がっている。
1960〜70年代の映画「不良番長」や「仁義なき戦い」の両シリーズなどで人気を博した梅宮さん。
6度のがんに見舞われるも屈することなく、芸能界の「辰兄(たつにい)」として存在感を放ってきた。
昭和の大スターとして知られ“豪快伝説”も数知れず。そんな梅宮さんならではのエピソードを一挙大公開!!

昭和の大スターの梅宮さんは、強烈な“銀幕スターの帝王学”を持っていた。
そのノウハウを叩き込まれた一人が、東映や日活で活躍し、Vシネマでも名をはせた6歳年下の後輩俳優の岡崎二朗(75)だ。

梅宮さんは東映映画「地獄の波止場」(1965年)で岡崎と初共演。
同作は博徒とギャングの抗争を描いたアクションで、故大原麗子さん(2009年死去)らが出演した。次世代のスターともてはやされていた梅宮さんは、新人俳優の岡崎を大いに歓迎した。

「いきなりソープランドに連れて行かれた。そんな先輩はいなかった」

梅宮さんは「スターとはどういう人間か」を岡崎に教え込んだ。

「お前、新宿二丁目で飲んでるらしいな。それじゃ三流の俳優だ。銀座で飲め!」と説教された。
「新人で稼ぎがないのにどうやってあそこで飲むんですか?」と尻込みすると「そういうこと言ってるからダメなんだ。
いいか!スターというのはカネのことは気にしちゃダメだ。誰かが払ってくれるから」とニヤリと笑ったという。

元号が昭和だった当時、売れっ子役者の多くは映画界にいた。日活では渡哲也(77)、松竹では田村正和(76)、東宝では黒沢年雄(75)らが人気だった。
映画俳優が銀座のクラブに行くだけで、リボンが結ばれたボトルやフルーツの盛り合わせが供された。

梅宮さんは移動手段にもこだわり、こんな“指導”をしていた。

「お前、電車に乗ってんの? スポーツカーに乗れよ。飽きたら『違う車よこせ!』と言えばいいんだよ。ったく、しょうがねぇな」とぶつくさ言って、スポンサーやディーラーに電話をしてみせた。
映画俳優は業者から「これに乗って現場に行ってください!」と懇願される、そんな時代だった。

当時の映画会社は、専属俳優に「年間でだいたい映画20本弱くらいの出演料を出してくれた」という。

「梅宮さんは1本50万円ほどだったと思う。それを月2回くらい。今の時代でいえば1本500万円くらいか。
ラーメン1杯で35円、500万円あれば都内に土地付きの2階建て一軒家が買えた時代だった」。
それに加え、月給とボーナスも支給された。当然、女性からも人気だった。

「東映では梅宮さんが一番モテた。しかも、いわゆるプロ、つまり水商売の子たちに。男をたぶらかすオンナが、梅宮さんにたぶらかされた」

つまるところ、梅宮さんのスターの帝王学は「“世話になりました”じゃない。“付き合ってやった”だ。
スターはスターらしくして、憧れを抱いてもらわないと。こうしたいと言えばいい。向こうが用意してくれるから」だったという。

車もカネも女も“寄ってくる”のがスターというわけだ。梅宮さんは豪快に遊んでいたため「カネねぇな」「貯金の仕方が分からねぇよ」「ちまちま蓄えてるヤツは売れねぇからな」と笑い飛ばしていた。

そんな豪快な梅宮さんは本紙インタビューにも幾度となく登場
平成から令和に改元の際には、小さくまとまった優等生芸能人が多い現在の芸能界に対し「このままいったら消滅しちゃうよ」と警鐘を鳴らしていた。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191214-00000000-tospoweb-ent
12/14(土) 12:00配信