サッカー元日本代表の京都DFの田中マルクス闘莉王(38)が1日、都内で引退会見を開いた。

 引退を決めた理由について、「自分の中で決めてたものがあって、いつかは自分の心が、少しでもこの炎が消えかかりそうな時があれば、どんな時であれ年も関係なく引退しようと。サッカーに関しては失礼なことなくやっていかないといけないなと自分の中では決めていた」と明かした。“その時期”とは「去年の終わりごろ」だといい、「少しでもそれを感じて、やっぱり引退しなきゃいけないなと」感じたと振り返った。

 ラストシーズンと位置付けた今季は、「相手チームのサポーターにも挨拶したい」という思いから、「ちょっと消えかかっていた炎を、最後のエネルギーに変えて1年やりました」と語った。

 キャリアで最も印象に残ったシーンに、南アW杯でPK方式の末に敗れたラウンド16でのパラグアイ戦で、最後に「駒ちゃん(駒野)がPKを外した瞬間」を挙げた。「次のキッカーが自分だったということもあって。自分のところまでまわってきていたら、どうだったんだろうなと」という理由からで、「外すんだったら、自分でもよかったんじゃないかと。あのPKのボールを、こんなボールを蹴りたいなと思ったのが、こんなキックをしたいと思ったのが、今までにはなかったんだなと」と思いを巡らせてきたのだという。

 一番誇りに思うのは「一瞬も1秒も手を抜くことなく、全力で気合を入れてやってきたこと」。時折、感極まって声を詰まらせながら、「時には頭が割れていても、筋肉が“バナレ”ても、鼻が折れてでも…。ピッチに戻ろうとした。その気持ちは、誇りに思います。あと、その全力の姿勢が、それを見てくれたかよくわかりませんが、たくさんの素晴らしい仲間に出会えたことも誇りに思います」と絞り出した。

 相手・味方を問わず、時にはサポーターとも激しい「ディスカッション」をしたこともあった。「全クラブのサポーターの方たちに頭を下げて、すいませんでしたと。それにありがとうございましたと言いたかったです」と、これからでも、感謝と謝罪を伝えたいとした。

 今後のことは「まだ考えていないです」。一度、故郷のブラジルに戻り、「たくさんビールを飲んで。たくさんいいものを食べて、10キロぐらい太って、皆さんが少しでも笑ってくれるような姿を見せてあげられればと思っています」と笑顔で語った。

 たぐいまれなリーダーシップでチームを率い、身体能力の高さ、確かな足元の技術、守備の感覚を生かし、所属したクラブの中心選手として活躍した。また、リスクをおかしながらの攻撃参加で得点を量産。リーグ戦ではJ1で395試合75得点。J2で134試合29得点、通算すると104得点を挙げている。

 ブラジル出身の闘莉王は03年に日本国籍を取得し、アテネ五輪に出場。A代表としては06年に初招集され、2010年南アフリカW杯に出場した。中沢佑二とのセンターバックコンビは攻守の両面で日本代表の屋台骨を支えた。国際Aマッチ43試合出場8得点。

 ブラジルのミラソルFCから千葉・渋谷幕張高への留学を経て、01年に広島に加入。水戸への期限付き移籍の後、04年に浦和に完全移籍した。06年にはリーグ優勝に貢献し、MVPを受賞。07年にはDF登録ながら11得点を挙げ、ACL初優勝にも貢献。09年シーズンまで浦和の主力選手であり続けた。

 10年からは名古屋でプレーし、初年のリーグ優勝に貢献。15年まで所属し、一度、退団したが、16年夏に名古屋に復帰した。17年からは京都でプレーした。

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