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(写真左から)エルマン・マンドーレ アシスタントコーチ、フリオ・ラマス ヘッドコーチ。(後列左から)竹内公輔、渡邉飛勇、ファジーカス ニック、八村塁、張本天傑、竹内譲次。佐古賢一アシスタントコーチ。(前列左から)安藤周人、比江島慎、ベンドラメ礼生、篠山竜青、馬場雄大、田中大貴。8月12日のNZ戦にて。


 どんな世界でも、それまで当たり前だと思っていた常識が変わるときがある。

 日本バスケットボール界にとって、この1年はまさにそんなときだった。

 その結果、サイズやフィジカルで他国に劣り、決定力も欠き、経験も浅く、世界どころかアジアでも勝てなかった日本代表が、フィジカルの強いオーストラリアやイランを倒し、接戦に勝ち、敵地での戦いも制して、自力でFIBAバスケットボール・ワールドカップ(以下W杯)出場権を勝ち取るまでになった。

 男子日本代表が世界選手権/W杯に自力で出場するのは21年ぶり。オリンピックに至っては前回出場したのは1976年だ。それだけ世界の舞台から遠ざかっていた。

 2017年11月から始まったW杯予選も、最初はそれまでの歴史が繰り返されるだけのように見えた。最初の4試合に4連敗し、いきなり1次予選敗退の崖っぷちに追い込まれたのだ。ところが、5試合目からすべてが変わった。

 強豪オーストラリア相手に接戦を制して勝利すると、そこから怒涛の8連勝。2次予選に進み、W杯出場権も勝ち取り、まるで漫画のような劇的な展開で、世界への扉を開けた。

■有望な選手がアメリカに行くのは無駄!?

 その変化を引き起こした中心人物は、世間の常識にとらわれなかった2人の若者、八村塁と渡邊雄太だった。

 2mを超える長身というだけで日本人離れをしているのだが、その彼らが高校卒業と同時に日本を飛び出し、アメリカに渡った。本気でNBAを目指し、その目標に近づくための渡米だった。

 現在24歳の渡邊が渡米したのは2013年。

 当時はまだ、日本バスケットボール界には、有望な選手がアメリカに行くことに対する抵抗が多く渦巻いていた。

 田臥勇太が日本人として初めてNBAフェニックス・サンズと契約してから、すでに9年の年月がたっていた。田臥は4試合に出場しただけでサンズを解雇され、その後、続く選手がいなかった。それだけに、日本人にとってNBAは遠い夢物語だった。有望な選手がアメリカに行くのは無駄だという極論さえ聞かれた。国内とは違うスケジュールに縛られる海外組は代表活動に呼びにくいと、嫌がる関係者も多かった。

■夢は「NBAでプレーすること」。

 渡邊は、子供の頃から「NBAに行きたい」と夢見ていたという。子供が大きな夢を見るのは珍しくない。渡邊が違ったのは、中学、高校と学年があがっても、将来の夢を聞かれるたびに「NBAでプレーすること」と言い続けてきたことだった。まわりの友人たちが夢から覚めても、渡邊は頑なに夢を信じ続けた。

 アメリカに出てきた当初、渡邊にそのことを聞いたことがある。

「NBA入りを思い続け、夢を曲げずに、言葉に出し続けてきました。それだけの覚悟ができていますし、自分も、ちゃんとやることはやっていると思っているので」

 渡邊は、まっすぐな眼差しでそう語った。

 アメリカではプレップスクールを経由してジョージワシントン大で4年間プレー。1年のときから試合に出て、上級生になる頃にはすっかりチームの中心選手となっていた。

■「君は将来NBAでプレーする」

 渡邊より3歳4カ月若い八村が、渡米したのは2016年。

 バスケットボールを始めてから6年たった時だった。中学に入ったばかりの時に、バスケ部のコーチから「君は将来NBAでプレーする」と言われ、その言葉の魔法にかかったかのようにバスケットボールに夢中になった。

 NBAに入れると信じ、そこを目指すために必要だと思ったことは、たとえ嫌いな勉強でも頑張った。その結果、名門ゴンザガ大に進学し、3年目の昨季にはチームのエースとして活躍するまでに成長した。

 2人がアメリカで証明したことは、無理だと言われ、常識だと言われていることでも、変えることができるということだった。

 渡邊は去年夏にメンフィス・グリズリーズと2ウェイ契約を交わし、グリズリーズで15試合に出場した。八村は、今年6月にワシントン・ウィザーズからドラフト1巡目9位で指名され、7月に複数年契約を交わしている。

>>2以降に続きます

宮地陽子
2019/08/21 11:40
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