ON以来の救世主登場

平成の終わり、雑誌『Number』で同誌初の3号連続のイチロー特集が話題となった。
同じように昭和の終わりには『週刊ベースボール』において、3号連続で表紙を飾った選手がいる。

巨人の呂明賜である。
1988年(昭和63年)7月4日号、7月11日号、7月18日号と3号連続の表紙で取り上げられ、特集内容も「呂明賜がもたらしたG打線の活性化 前に大きくの“怪物スイング”がG打線を根本から変えた!」
「“呂効果”の全貌 恐怖の“全塁打者”は巨人を変え、プロ野球を変える!」「母国・台湾でも“呂フィーバー” 巨人・沢田幸夫元スカウト部長が語る怪物獲得秘話」と勢いのある文言が並び、
「はばたけ新巨星!極致的全塁打者・呂明賜のすべて」という短期集中連載まで始まっている。もしかしたら、瞬間的にプロ野球史上最も騒がれた選手かもしれない。

もともと呂は“第3の外国人選手”として来日した。
当時の巨人にはウォーレン・クロマティ、ビル・ガリクソンという元メジャー・リーガーの投打の柱がおり、一軍登録2人までの外国人枠は埋まっていた。
台湾の逸材もあくまで彼らの保険的な立ち位置であり、日本で育てる意味合いも強かった助っ人である。
80年代後半は郭泰源、郭源治、荘勝雄の台湾トリオ“二郭一荘”がNPBで活躍し、注目度が高まっていた時期で、同胞の先輩たちに刺激を受けた23歳の呂は87年12月に巨人入りを決断。

アマチュア通算112発の“アジアの大砲”には大リーグのオリオールズや日本の大洋からも誘いがあったが、尊敬する母国の英雄・王貞治が指揮を執る球団を選択した。
身長178センチ、体重86キロの筋肉質の体型で、握力は80キロ超え。
文化大3年時のホームラン競争では100スイング中52本をスタンドに運んだケタ違いの怪力が話題に。
前年11月に体重100キロを超すオーバーウエートで兵役免除となったが、わずか3カ月で14キロの減量に成功しての日本球界挑戦だった。

88年2月24日に宮崎二軍キャンプに合流し、捕手から外野手へのコンバートが検討される中で様子見のスロースタート。
しかし、開幕するとファームでその打棒がいきなり爆発する。5月27日時点で、25試合、86打数34安打の打率.397、10本塁打、31打点。
安打の内、約3分の1が本塁打の怪物ぶり。
88年6月13日号の週べでは、さっそく『日本人なら間違いなく王巨人の四番に座っていたアジアの大砲!』の緊急特集が組まれている。
辛口で知られる張本勲氏も「山本浩二(元広島)よりパワーがあって、大杉勝男(元ヤクルト)より器用なんだ。
まったく、外人扱いというのが残念だね」と珍しく手放しで絶賛。クロマティ、原辰徳、吉村禎章を大きく上回る底力とまで書かれる男の一軍デビューを誰もが待ち焦がれた。

すると、この記事が出た直後のことだ。6月13日の阪神戦(甲子園)でクロマティが左手に死球を受け親指骨折。
イースタン三冠王の呂は翌14日のヤクルト戦(神宮)に一軍昇格すると、即「六番・右翼」でスタメン出場。
初打席で先発のギブソンからいきなりレフトスタンドへ1号3ランを叩き込んでみせた。
大きなフォロースルーに圧倒的なパワー。
以降9試合で7ホーマーと打ちまくり、巨人戦中継がゴールデンタイムの看板番組だった時代において、メディアも“ON以来の救世主登場”とお祭り騒ぎに突入する。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190508-00000005-baseballo-base
5/8(水) 11:01配信

https://www.youtube.com/watch?v=JOzybH1vtRU&;t=82s
呂明賜同点&サヨナラ弾(1988.6.25 G+)

https://www.youtube.com/watch?v=73By1mRL5M4&;t=1s
吉村 原辰コ 呂明賜 連三打席全壘打

https://amd.c.yimg.jp/im_siggy7DelZgczXeDHip6HLInRQ---x287-y400-q90-exp3h-pril/amd/20190508-00000005-baseballo-001-2-view.jpg
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https://i.ytimg.com/vi/JOzybH1vtRU/hqdefault.jpg

http://npb.jp/bis/players/11913866.html
成績