(前略)

 いみじくも、習志野の監督は、抗議に現れた星稜の監督に対して、

 「星稜もやっているでしょう」と言い返したという。その言葉に、高校球界にはびこる勝利至上主義の弊害、ルール破りも当然だとする根深い実態が露呈している。

 モリカケ問題をはじめ数々の事案で不正が明らかになりながら、なぜ政権がのうのうとその座に居座り続けるのか不思議でならないが、高校野球の実態や裏表を見れば、日本中がそういう本音と建前に牛耳られ、「やった者勝ち」の論理がまかり通っているのだとわかる。哀しくて、やりきれない。

● 「ノーサイドが原則」の発言に 滲み出る悪しき高野連の悪しき体質

 この問題は、さらにもうひとつ波紋を広げている。

 習志野が実際にサイン盗みをしていたかどうかは調査が必要だが、このような疑惑が指摘されたら、根本的に改善する方向に動くのが日本高野連の当然の姿勢だろう。ところが、星稜の監督をバッシングする方向で事態は収拾されているのだ。

 翌日、報道陣に対して星稜・林和成監督は「私の行き過ぎた言動と行動で多大なご迷惑をお掛けしたと日本高野連に謝罪した」と語ったと報じられた。だが「私の中ではあったのではないかといまだに思っている」とも語ったという。

 日本高野連の竹中雅彦事務局長は「どういう動作がそう見えたのかを確認したい」と話し、星稜に対して証拠と主張する1回戦の映像提出を依頼したそうだ。また一方で竹中事務局長は「試合後はノーサイドが原則。試合後の行動は反省してください」と注意したと報じられた。

 この竹中事務局長の発言にこそ、日本高野連の悪しき体質が滲み出ていると私は唖然とした。ノーサイドの精神というスポーツ用語を自分たちに都合よく曲解し、正義を押し付け、本質をあやふやにする、最も許されざる姿勢だと思う。

 ノーサイドとは元々ラグビーのスピリットを表す言葉だ。そのラグビー界では、試合が終わると敵も味方もなく、ビールを酌み交わし、試合を振り返る。そこにはレフリーも加わって、時には激しい議論にもなる。ジャッジを巡って、忌憚のない意見を交し合うのだ。

 ルールの解釈、ジャッジの意図、試合中には会話できない深い部分やお互いの意見の相違を試合後に確認する。私は、選手と審判が口角泡を飛ばし、時には試合中以上に高いテンションで口論する光景を何度も見ている。それでこそ、互いの理解が深まり、次の試合に臨む準備ができる。ノーサイドとはこういう姿だ。自由な議論や会話をするという本質を曲げて、「言うことを聞け」と言わんばかりの暴言だと気付いていないほど、日本高野連は裸の王様になっている。

 私も中学硬式野球の監督時代、試合後に本部席へ行き、審判団に説明を求めた経験がある。ところが、本部席や審判を訪ねた時点で「文句を言いに来た」と受け取られ、完全拒否の姿勢を貫かれた。

 「抗議ではありません。もう試合は終わったのだから、結果が覆らないのはわかっている。だからこそ、説明を求めに来た。監督がルールの運用を理解していなければ、次の試合に向けて選手にどう指導していいかわからない」

 そう主張したが、「抗議は一切受けない」の一点張りで、私に「要注意」のレッテルが貼られただけだった。ラグビー取材の経験があったため、ごく当然のように説明を求めたのだったが、野球界ではこれがまったく通用しない。次のような新聞報道が、報じる側にも、お上の側から物を見る基本姿勢を表している。

 『前代未聞の怒鳴り込みだ。2回戦で習志野(千葉)が星稜(石川)に3―1で競り勝ち、初の8強入り。今大会No.1右腕・奥川恭伸投手(3年)の攻略に成功したが、敗れた星稜の林和成監督(43)は習志野のサイン盗みを疑い、怒りを爆発。試合後に相手の控室に乗り込んで小林徹監督(56)に「フェアじゃない!」と直接抗議する異例の事態に発展した』(スポニチ 2019年3月29日)

 いまは罰則がないため野放しになっているとの批判・提言もある。まぎらわしい動きをした二塁走者に「アウト」を宣告すべしとの提言だ。しかし、懲罰主義も危険だ。この罰則を逆用され、9回裏一打同点の場面で、まぎらわしい動きをアウトにされたら、無実の攻撃側にはたまらない。まったくその意図や事実がなかったときに、その場で無実を証明する方法もないからだ。たとえビデオ判定を導入しても、なんらかの動作に疑惑を向けられたら否定のしようもない。

>>2以降に続きます

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4/2(火) 6:01配信 ダイヤモンド・オンライン
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190402-00198512-diamond-soci