三島由紀夫の「火の鳥」批判

三島が手塚治虫について言及したのは
「劇画や漫画の作者がどんな思想を持とうと自由であるが、
啓蒙家?や教育者や図式的諷刺家になったら、その時点でもうおしまいであ?る。
かつて颯爽とした『鉄腕アトム』を創造した手塚治虫も、『火?の鳥』では日教組の御用漫画家になり果て・・・」
という火の鳥を酷評したものがある。

この火の鳥は黎明編を指している。
この作品では左翼界から生まれた騎馬民族征服王朝説を取り入れ、
神武天皇をモデルとするニニギをあたかも侵略者であるかのごとく描いており、
天皇を悪人とする自虐史観に基づく古代史の解釈が三島の歴史観と真っ向から対立したのである。
この批判に対して手塚治虫は「とにかく最後まで見てから批評して欲しい」と直接三島に電話をしたが、
それを見ることなく三島は1970年(昭和45年)三島事件で日本が亡国へ向かう落胆と共にこの世を去り、
手塚のライフワークであった火の鳥もついに未完で終わることになったのである。

一方、手塚治虫の三島由紀夫に対する想いは三島由紀夫のそれより遥かに熱量を持っている。
手塚治虫は三島より3年後の1928年(昭和3年)に生まれ、
「気になる同時代人は誰か?」との質問に「三島由紀夫」と回答しており、
明らかに三島由紀夫をライバル視していた。

共に戦争を経験している世代であるが、
従軍して戦争に行きたいのに虚弱体質のために検査に合格できず、軍需工場でしか働くすべのなかった三島と
ただ漫画を描きたかっただけなのに大阪大空襲を経験した手塚とでは戦争観に大きな違いがある。
それが作家性の違いを生んでいたが、
一方で作品の根底に流れる戦中派に共通の虚無的な死生観には共通する点も見受けられる。
両者の作品とも登場人物がよく死に、輪廻転生を描いた作品を残している。