【古市憲寿さん】“どう生きるか”の指針 いらぬ炎上騒ぎに「巻き込まれ続ける」のも仕方ない
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
社会週刊新潮 2019年2月7日号掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/02070555/?all=1
https://www.dailyshincho.jp/wp-content/uploads/2019/02/1902070555_1-714x435.jpg
イラスト・k.nakamura
『君たちはどう生きるか』。吉野源三郎のベストセラーだが、この問いかけは誰にとっても、そして人生のいつの段階においても意味があるものだと思う。
なぜなら胸を張って「どう生きるか」を決められる人など決して多くないだろうから。そしてその決定によって、人生の姿はまるで変わってくるだろうから。
僕自身、「どう生きるか」を考えたことはあまりない。しかし事後的に振り返ってみると、いくつか指針のようなものはあったと思う。
たとえば「できるだけ努力をしないようにする」。
子どもの頃、自分が運動能力に恵まれていないことに気が付いた。だから、体育を頑張るのをやめた。そのせいで、僕はドリブルもできなければ、走るフォームもどこかおかしい。
もしそこで努力をしていれば、人並みくらいには運動ができるようになっていたかも知れない。しかし諦めたのには理由がある。運動をして、身体を鍛えることを、努力とも思っていない人たちがいたからだ。好きで運動をしている人に、いやいや運動をしている人が敵う確率はおそらく低い。
そう気付いてから、努めて自分がストレスなくできることに時間を費やしてきた。たとえば、子どもの頃から文章を書いたり、図鑑を読んで情報をまとめることが好きだった。それは結局、今の仕事に直結している。
最近、大事にしているのは「誰かのためだけに生きない」ということ。友だちの誕生日を祝ったり、頼まれごとを聞くのは嫌いではないが、それが「義務」にならないようにしている。
善意や自発性から始まった行為も、繰り返すうちに義務になることがある。だから、きちんと互いに利益があるかを考える(言葉にすると嫌な話だけど)。友人の誕生日会を開催するときは、さりげなく自分も会いたい人を呼んだりと、「Win-Win」を意識する。
「Win-Win」という言葉を嫌う人もいるが、無垢な善意ほど怖いものはない。きちんと計算をしてお互いにとってのメリットを探ったほうが、人間関係はうまくいくと思う。
義務感は、大したものを生まない。好きじゃないものは続かない。そう考えるから、過剰に他人の視線を意識することもやめる。
たとえば、テレビで発言をするとき、「こう言えば褒められるかな」と一瞬よぎることがある。だけど、仮にそのような発言が褒められたところで、それは自分の自由な意見ではない。
こう整理していくと、自分が一番大切にしているのは「自己決定」なのかなと思う。所得や学歴よりも、「自己決定」が幸福度に影響しているという研究もある。
もちろん完全な「自己決定」などないのかも知れない。人は常に影響を受ける。どんな決定にも、他人や社会の影響は皆無ではない。
だけど僕の場合、「自分で決めた」ことに関しては、失敗しても「仕方ない」と思える。いらぬ炎上騒ぎに巻き込まれ続けているのも、自己決定の結果だから仕方ない。下手にマネージャーがいなくてよかった。
古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。 マネージャーはいないけどでかいBackとスタイリストはつけてるよね此の人w >>善意や自発性から始まった行為も、繰り返すうちに義務になることがある。
すげえ分かる >
善意や自発性から始まった行為も繰り返すうちに義務になることがある。
コレは分かる気がする……
そうなるのが嫌だと思うようになってくると(善意や自発性から始まった行為自体を)初めからするのを止めておこうと思うようになってきてしまう…… ポイントは「自己決定をしている」と本人が思えばいいというところ。
第三者的に見て明らかに「それは自己決定じゃないだろ」っていう状況でも
本人がそう思っていれば幸福度は高まる。
だけど洗脳されてる危険性があるけどね。 どう生きるか考えない?嘘吐け。未だに東京大学にしがみ付き社会学者なんて勝手に名乗ってる分際でw 自己決定が大事というのは分かるよ。
自分が望む方向ではなく、敷かれたレールの上を進むだけだと辛いよな。進学、就職、結婚を無難にこなしているように見えても心が病んでる人がいるよ。 >善意や自発性から始まった行為も繰り返すうちに義務になることがある
超激しく同意
相手もつけあがって当然のような顔するんだよな
善意で始めたことも続けてしまうと止める時すげー気をつかう >善意や自発性から始まった行為も繰り返すうちに義務になることがある。
これがわかる気がする人は、最初から義務感でやってるか、最初からやってない >>13
善意や自発性ではじめてないから、感謝されないとつけあがってるとか思うようになるんだよ >>15
つけあがるって言う表現に違和感があるのであれば
「期待値」て言葉に置き換えてみるといいと思う。
人は「期待値」を上回る結果が生じた時幸福感を覚える。
だけどその「期待値」は長続きせずにどんどんハードが高い
「期待値」に変質していく。
だからずっとその「期待値」を満足させる事はとてもしんどいこと。
古市が言いたいのはそんな他人の「期待値」に応え続ける事は自分はしないと言うこと。 いや炎上は営業活動だろが
そこは隠さずに言うキャラだろ失望した! >古市憲寿(ふるいち・のりとし)
>1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。
只の大学院生を学者とかいってありがたがるなよ
なんか研究発表会してるの?
博士号は? 善意や自発性から始まった行為も繰り返すうちに義務になることがある
こんなこと古市は義務になるほどくりかえしたことないと思うがね
俺も生きてきて別に義務になるほどくりかえしたことがない
人に親切にしようという言葉があるのは
人間てのは基本自分本位であまり人に親切にしないからであって
善意なんかなくていい義務になるとか
そういう理屈が世の中はばきかせると
まったく善意がないみたいなタイプが平気で生きるみたいに
なっていやだけどなあ >>22
小学生からまわりと遊ぶより
図書館いましたみたいな社交性低い奴が
文献だけで社会を知って
論文かくのが社会学者ってすごい変 なるほどそういう育ち方をしたから成功者に対する妬みも酷いわけか
で、コンプレックスの塊だから揚げ足を取るだけしか能のない人間に成り下がると 其れは途中から義務感に気づいただけで最初から善意でもなんでもないw 善意が義務になる
この話もそういうケースがあってこまった
って体験談が本に書いてあってそれを
そのまま言ってるだけなんだろうなこいつ 例えば飲み会の幹事や旅行の企画をAという人物が最初、自発的にやる
→それが複数回あると飲み会や旅行する時、自分も含めて周りも勝手にAが予約やスケジュール調整をやってくれると思い、
「あと宜しくな!」ってなる事(Aが難色を示したらむしろ今までやってきてるのにいいじゃん、何で?と疑問が出る事も)はあると思うけど、それは周りが無意識のうちにAに幹事の(緩めの)義務化を強いてると言えるのか…… >>27
それも善意なんていうほどのものじゃないからなあ
本人も飲み会やりたいだろうし
いままでやってきたんだからおまえらやれよと
言えばいいだけ
まわりが俺に頼むようになるから
はなからやらないってのもおかしな話じゃね 古市って太田より頭が良くて
太田からお笑いセンス引いた人ってイメージ
友達いなくて本ばっかり読んできたみたいな
自論言うときやたら早口だしw >>27
東京03のコントにそういうのがあったなw 仕事ってことであえて言うてる部分あるだろ
でも、みんなそんなもんだよ
命かけて主張してるわけじゃないと思うよw
本当に命かけるなら天皇やイスラム教にもいいたいこというはずだよw
でも馬鹿らしいじゃん それで命狙われるなんてさ
稼ぐために言うてるだけなのにさw なんか、どこをどう読んでも自己愛性人格障害の自己弁護感しかないよな? 城田には優しくされたいのに他人との関係を拒否したがるなんて、ずいぶんなことカマすんだね。 今度こそ芥川賞だと新潮でそれっぽいことを言ってみるの巻
去年の夏は「ワールドカップって何が面白いんですか」と言っていた三十路おじさんだったのにw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています