やはりサックスブルーに染まった。MVPの家長を筆頭に、ベストイレブンに7人。
川崎フロンターレがアウォーズも席巻したのだ。
攻撃も守備も、個人も組織も、魅力的でたくましかった。「ベストゴール」に代表されるスペクタルなサッカーで楽しませてくれた。
その上で最多得点と最少失点で2年連続優勝を達成した。納得の表彰だった。

こうなると「3年分割で払われるDAZNマネーは1年目が10億で、2年目が4億で、3年目が1.5億。それが連覇だから……
あ、優勝賞金の3億円も……」と未来のビッグクラブへの皮算用をしたくなるところだが、今回は踏み止まって足元を見つめたい。

低迷期と中村憲剛の発掘。

(中略)

クラブ改革で市民のチームに。
そんな転換の背景にはクラブの改革があった。積極補強でメンバーを入れ替えた2000年、
フロンターレの年間予算は30億円に膨張していた。それを2002年には半分以下に削減した。
このとき変わったこと。運営会社名が「富士通川崎スポーツ・マネジメント」から「川崎 フロンターレ」になった。
それまでの富士通の100%子会社から、川崎市、フロンターレ持株会、地元企業を株主に加えた。
そして「30億円」の予算を組めなくなった代わりに、川崎市民のチームへと生まれ変わろうとした。

その後、J2時代はほぼ横ばいでの経営が続く。しかし、この間に出向社員からプロパー採用への体質改善が進められた。
そんな社員たちが(外部に委託することなく)自らイベントの企画や運営を行なうようになった。
チーム同様、個性的なフロントはこのとき育てられた。
そしてJ1に再昇格した2005年、現有戦力で挑んだチームは8位(18チーム中)で残留を果たす。
ボランチには若くて魅力的なコンビ。その左胸のエンブレムに「FUJITSU」の文字はもうなかった。
それでも半減していた年間予算は、気がつけば20億円。2年後にはかつての30億円に達するのだった。
チームが変わり、クラブが変わり、こうして現在へと続く階段をフロンターレは昇り始めたのである。

変わったのはチームとフロントだけではない。もしかしたら、もっとも劇的に変わったのはホームタウンだったかもしれない。
等々力競技場のスタンドから見えるスカイラインに変化が起きたのはフロンターレがJ1に再昇格して少し経った頃だ。
武蔵小杉駅周辺の再開発がスタート。タワーマンションが建ち始めたのである。

優勝争いの常連になった2000年代後半には風景だけでなく、雰囲気も変わり始めた。
タワーマンションをはじめとした住宅だけでなく、大型商業施設や公共施設が誕生。道路が拡幅され、広場ができ……。
そこに“かつての川崎”のイメージはない。

再開発の中心は武蔵小杉周辺。

京浜工業地帯の中核として隆盛を極めた川崎市は、昭和の時代には重厚長大産業が集まる先端的な都市だった。
市内の産業の7割は製造業。だからこそ時代の変化をもろにかぶった。
産業構造の転換によって大規模な余剰雇用が生じ、有効求人倍率は全国ワースト5。
「戦後日本の縮図」と産業政策部の課長が話していたことがあるが、職安でキレる。声を荒げる。椅子をひっくり返す。
そんなシーンを目にすることが珍しくない、まさしく戦後日本の歪みが顕在化している町、それがかつての川崎だった。

それがこの10年で激変した。いまや人口は150万人を超え、増加率は政令指定都市の中でもトップ。
その呼び水となったのが市内各所で行われている再開発プロジェクトであり、その象徴ともいえるのが等々力競技場のある武蔵小杉周辺だったのである。
しかも転入者は若い世代が多く、生産年齢人口が全体の7割を占めるという。
となれば当然、税収も豊か。これはポジティブスパイラルが回り始めたということでもある。

つまり、健全な財政が暮らしやすい街作りに力を注ぐことを可能にし、
その結果、若者が流入し、結婚や出産も増え、人口が増加し、また財政が豊かになる、という好循環である。
その過程ではシティイメージも改善する。すでに「住みたい街ランキング」上位の常連の武蔵小杉をはじめ、川崎市はますます発展する可能性がある。
そして、それはフロンターレの可能性でもある。

(●一部抜粋しました、記事全文はこちらです)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181223-00832914-number-socc

ホームタウン
https://cdn.amanaimages.com/preview640/10684006576.jpg
http://frontale.moe-nifty.com/photos/uncategorized/2015/10/24/1445659472098.jpg