東京五輪を目指す若きフットボーラーたち(3)
◆京都サンガF.C.・岩崎悠人@後編

 京都サンガではプロ1年目の昨シーズンから出場機会を掴み、U−20ワールドカップにも出場した。だが、けっしてエリート街道を歩んできたわけではない。中学時代には挫折も経験したが、苦しい時期に支えてくれたのは、「日本代表になる」という夢だった。だから今、出場機会を失っても腐ることはない。悩みながらも考え抜くことが未来を切り開くことにつながると、岩崎悠人は知っているからだ。

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―― 今年のアジア大会期間中、岩崎選手は「高校の時もそうですけど、今までゴールでチームの信頼を得てきたし、ゴールでチームを助けてきたから、僕にとってゴールは大きいものだ」と言っていました。子どものころからストライカー、ゴールゲッターだったんですか?

岩崎悠人(以下:岩崎) いや、小学生時代はボランチとかで、自分でドリブルで抜いていって、GKと1対1になったところでパスを出して決めてもらう……みたいなシーンが多かった覚えがあります。

―― 低い位置から運んで。足は速かったんですか?

岩崎 足は速かったと思います。

―― では、いつからストライカー、点取り屋に?

岩崎 高校に入ってすぐ、いきなり(京都橘高の)米澤(一成)先生にFWに指名されて、中野克哉くん(現関西大)と2トップを組んでからですね。中学時代(彦根市立中央中)もトップ下でしたから。

―― トップ下から突破していくような?

岩崎 ダイヤモンドの4−4−2で、トップ下をやっていたんですけど、2トップも速かったので、相手の背後にバーンと蹴って、走らせていました。

―― 馬力だとか、多少無理の利くプレーも魅力だと思いますが、そういうプレースタイルはどういう経緯で自分の武器になっていったんですか?

岩崎 高校の時は土のグラウンドで、米澤先生に1対1、2対2、3対3などをかなりやらされたんです。そのなかで、自分よりもうまい選手というか、3年生とずっと対戦していたので。

―― 1年生の時からレギュラーでした。

岩崎 はい。負けず嫌いでもあるので、必死にボールに食らいついていたら、足が伸びるようになった感じです。
アジア大会はけっこう、グラウンドの状態が悪かったじゃないですか。ああいうところでも平気でやれるようになれたのは高校時代のおかげです。

 あと、高2の時から、JARTA(ジャルタ)というトレーニングを取り入れるようになって。
それは今もやっていて今年4年目ですけど、可動域が広がったり、身体操作というか無駄のない速い動きができるようになってきた気がします。

―― 滋賀県で過ごしていて、京都橘高に進学した。中学3年の時、京都橘高が全国高校サッカー選手権で準優勝したのを見て進学を決めたそうですが、他に京都橘高に憧れた理由はありますか?

岩崎 選手権を見て、やっぱり高校サッカーはいいなと思っていて、高体連から誘われたのが橘だけだったんですよ。
米澤先生が声をかけてくれて。中学3の時に高1の先輩たちと一緒に国体に出たんです。

―― 滋賀県選抜の一員として、ですね。

岩崎 はい。その滋賀県選抜の監督と米澤先生の仲が良くて、紹介されたんです。それで会ってみて米澤先生に惹かれたというか。実際はむっちゃ怖かったですけど(笑)。

―― では、これまでは比較的順調にキャリアを築いてきて、今季は初めて大きな壁にぶつかっている感じですか?

岩崎 いや、中学時代はめっちゃ悩んだし、間違いなく挫折を味わったと思います。
でも、自分としては、南アフリカ・ワールドカップを見て日本代表になるという夢を持って、それになるためにガムシャラに、ずっとボールを蹴ってきたし、
苦しい状況のなかで、自分でいろいろと考えたことが今、大きな財産になっていると思います。だから、今もいろいろと考えていますし。
来年や再来年に、この時期があったから今の自分がいるって言えるように、がんばるしかないですよね

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181204-00010001-sportiva-socc
12/4(火) 6:40配信

https://soccer.yahoo.co.jp/jleague/players/detail/1500418/134
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