0001pathos ★
2018/10/24(水) 22:25:11.74ID:CAP_USER9腕を振るたびに恐怖感が湧き上がり、左ヒジが痛む。この恐怖と痛みは必ずセットで襲ってきた。高浦から心強い言葉を掛けられても、森の心は曇ったままだった。
「このままプロに入っていいのか?」
当時、「自由獲得枠」というドラフト指名制度があった。大学生、社会人の有望選手が入団したい球団を逆指名できる制度のことだ。多くの球団が逸材を何とか囲い込もうと躍起になり、その結果、密約や裏金が飛び交う原因になった。
後に横浜を含めた複数の球団がドラフト候補に金銭を不正に供与していたことが明るみに出て、逆指名制度はなくなった。森はまさに逆指名時代の渦中に放り込まれた選手だったのだ。
松坂大輔のポスターを自室に貼り、孤独な特訓にも耐え、半ば無理やり社会人に進まされ、ようやく夢にまで見たプロへの扉が目の前にある。「入らない」という選択肢を選ぶことはできなかった。
「プロに入って変わればいいんだ。変われるんだ」
そう自分に言い聞かせる。森は自由獲得枠で横浜に入団することを決めた。
12月15日に開かれた新入団選手発表記者会見。背番号15のユニフォームに袖を通した森は、フォトセッションで「BE A HERO」と書かれたボードを掲げ、笑顔でフラッシュを浴びていた。「ヒーローになれ――」それは多くのベイスターズファンの願いだったに違いない。用意された色紙には「2ケタ勝利」と景気のいい目標をしたためた。
「色紙を書きながら、自分のことながら『何やってんだよ』と呆れていました。お前はまず、それ以前の問題だろう……って」
プロ入りに向けて、年内は気持ちの整理と体のメンテナンスにあてた。そして年が明けて2004年1月、森は新人合同自主トレに臨んだ。
空白期間を設けたことが吉と出たのか、それともヒジの炎症が治まったからなのか。キャッチボールから森は快調だった。「いけるじゃん!」。今まで引っかけてばかりいたボールが、多少抜けるようにはなったものの普通に近い感覚で投げられた。
ブルペンに入り、捕手を立たせた状態でピッチングをしてみる。首脳陣や新聞・テレビなどのメディアが見つめるなか、森のボールは捕手のミットを強く叩いた。山下大輔監督はその場で森の開幕一軍を明言。森はすぐさま、実家の父親に報告の電話を入れた。
沖縄でのキャンプも順調に進んだ。第2クールまでは個人のメニューが中心だったため、自分自身の調整に専念できた。
本来の自分に戻れたのかもしれない――。
そんな淡い手応えを抱きかけた第3クール初日。その日は投内連係のメニューが組まれていた。
ふと周囲を見渡す。キャッチャーに相川亮二、ファーストに佐伯貴弘、セカンドに種田仁、サードに村田修一、ショートに石井琢朗……。
「あのテレビの箱の中にいる人たちが目の前にいたんです。投げるところ全部が怖くて、『投げられない』と思ってしまいました」
かつては投内連係に苦しむチームメイトに「捕って投げるだけじゃないですか」と言い放った自分が、皮肉にもプロの世界では投内連係で地獄を味わう。
そして、森は再び壊れてしまった。
「もうめちゃくちゃでした。投げ方はカチャカチャとぎこちなくなるし、ブルペンに入ればキャッチャーの構えたところにほとんどいかない。もう3クール目ですぐ二軍落ちでした」
そして、森は淡々とした口調でこう続けた。
「それから、もう二度と一軍に上がることはありませんでした」
当時、横浜の二軍は独立採算制を敷いており、「湘南シーレックス」というチーム名で一軍とはユニフォームも違った。つまり、森が横浜ベイスターズのユニフォームを着たのは、キャンプ序盤のごくわずかな時間だったのだ。
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