横浜時代(2009年)

2009年からは横浜ベイスターズの選手会長を務めた。
2009 ワールド・ベースボール・クラシック(第2回WBC)の日本代表に選出され、初試合の対中国戦で2ラン本塁打を放つ。

その2日後に行われた対韓国戦は「4番・三塁手」で出場し、金廣鉉から2試合連続となる3ラン本塁打を放つ。
その後も調子が安定し、キューバ戦でも打点を挙げるが、第2ラウンドの韓国との順位決定戦で右足太腿裏の肉離れを起こして退場。

決勝戦に向かうことができず、途中帰国となった。
打率.320、2本塁打、7打点の成績で、日本代表が連覇を果たすと、
グラウンドでの全員の記念撮影の後で内川が優勝トロフィーに村田の背番号25のユニホームを被せて持ち上げた。
3月25日、成田空港で行われた帰国会見で再合流、原辰徳から遅れて金メダルを授与される。

帰国後の検査で全治6週間と診断され、同年の開幕を二軍で迎えたが、
4月15日のイースタン・リーグのロッテ戦に「4番・指名打者」で出場、第1打席で本塁打を放ち、その後守備にもつき、4月21日に昇格した。

その後も4番として活躍していたが、8月7日の中日ドラゴンズ戦(横浜)で走塁中に左足太腿裏を痛めて途中交代。翌日に降格した

この年で事実上、村田の全盛期の打撃は終わった
あとは劣化した