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【野球】野球とスポーツ紙… 青息吐息のスポーツ紙 強精剤の広告が各紙を埋める事態に
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2018/07/21(土) 22:23:22.96ID:CAP_USER9
 野球文化學會のベースボーロジーに、昨年12月の同學會で行われた研究会のシンポジウムで発表させていただいたものを掲載しました。その原稿を当ブログにも再録させていただきました。

野球とスポーツ紙  報知新聞・蛭間豊章

 日本におけるスポーツ紙は1946年3月発刊の日刊スポーツに始まりました。次いで神戸でのデイリースポーツが1948年8月、大阪でのスポニチが1949年2月。同年12月には夕刊紙だった報知がスポーツをメーンにする紙面に衣替え。中日スポーツが1950年3月、名古屋で創刊されました。これは何を意味するかといえば、戦争直後の大野球ブームによって1940年代末に、月に野球雑誌が20誌以上出版されていました。ただ、内容がどこも似たりよったりで淘汰されつつあった時期に、より新しい情報源としての東京、大阪、そして名古屋の大都市にスポーツ紙が続々と誕生していったわけです。大阪には1950年に「オールスポーツ」が発刊、日刊スポーツに1957年に吸収されるまで存在していました。サンケイスポーツ大阪発刊は1955年2月。フジサンケイグループが国鉄スワローズへの資本参加した翌年の1963年2月に東京でもサンケイスポーツ発刊。そして、中日スポーツ系列の東京中日スポーツとしてスタートしたのが1970年3月。ちなみに夕刊紙の東京スポーツは1960年4月の発刊です。大都市へ向かうサラリーマンが年々増加したこともスポーツ紙の拡充につながったのです。

 11月は、日馬富士の暴力事件から大相撲の記事が連日1面を飾って、野球界の話題は大谷のポスティングシステムでメジャーのどこへ行くかの話題でプロ野球は片隅に押しやられている形です。昔はオフのゴルフ大会などのどちらかというと、プロ野球選手ののんびりしたプライベートが紙面を飾るケースも多かったのですが、Jリーグが始まった1993年を境に多種多様なスポーツ。そして一般ニュースなども取りあげられるようになりました。年配の方々は覚えていらっしゃると思いますが、報知新聞の場合は1面の題字の左側に3つの文字がありました。それは、用紙の統制が解かれ2ページから4ページになった1951年10月10日付けから題字が、それまでの右上からの縦だったのを横にした時からスタートしました。この年の3つの文字は、面白い事に「スポーツ、演芸、ラジオ」でした。

 明治時代に創刊された報知は、戦時中読売に併合され戦後は夕刊でしたが前記した1949年暮れにスポーツ紙となるも、当初は政治なども含めた一般ニュースも掲載。それが1951年7月19日付けで、誌面から政治、社会の記事が一切無くなった事に関係しています。翌1952年7月から1970年まで長い間、「スポーツ、文化、芸能」。1971年から3年間は「スポーツ、レジャー、芸能」を標榜していました。しかし、1973年暮れのオイルショックによる紙不足の影響もあったのでしょう。それは一切、無くなりました。これがきっかけではないでしょうが、その後はレジャーという面が少なくなり、あまり扱わなかった一般社会のニュースが徐々に増えてきました。ちなみに、1974年に読売ジャイアンツは10連覇を逃しました。その3つのモットーのような言葉が無くしたから、とは後付けの笑い話ですが。

 先ほど申しましたように、野球がメーンの報知新聞東京版を例に挙げますと、1950年代までは東京六大学、都市対抗野球にはプロ野球を超えるスペースが与えられていました。当時は春夏の甲子園は関東圏の学校が勝ち進んでいった場合を除いて現在よりも小さな扱いでした。プロ野球も1950年は2ページ、用紙統制が解除された1951年に4ページ、1955年6ページで、プロ野球は戦評(現在の試合経過)とイニング、テーブルのみというケースがほとんどでした。それでも、大阪発刊の隔週野球雑誌ベースボールニュースの1954年1月号に掲載されたスポーツ報道陣評判記によると、“老舗の日刊スポーツのベテラン記者が他紙に引き抜かれ、その穴埋めに大学のスポーツ経験者を記者として多く雇うケースが多くなって低迷している“とあります。逆に報知は”読売新聞社会部などから転任してきた記者が独自色でエピソードなどを加えたヒーロー原稿を少しずつ書くようになって部数を伸ばしている“と書かれています。もちろん、今の時代のように映像などで見られる時代ではなかったことに加え、1954年から56年はユニオンズがパ・リーグに加入しており1日7試合。スペース的に戦評を中心で何試合かにヒーロー原稿を入れるのが精一杯だったようです。
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2018/07/21(土) 22:24:07.38ID:CAP_USER9
 昔の新聞を見ると面白い事に気づきます。メジャーリーグの扱いを報知のケースで振り返りますと全試合の結果を掲載し始めたのが1952年から。1955年まで棒スコアに得点、安打、失策、責任投手で本塁打は未掲載。それが1956年には常時8ページに拡充されたからでしょうか今では考えられないイニング、得点、安打、失策に責任投手込みのバッテリー、本塁打。最大の表記は1960年から62年の3年間。当該カードの対戦成績まで入っていました。それが1967年、69年はともに棒スコアだけという時代を経て1970年からは現在のスタイル、棒スコア、責任投手、本塁打に落ち着きました。1950年代前半こそ締め切り時間の関連でメジャーの話題物が1面という事もありましたが、日本プロ野球の記事が増えてきた1960年代半ば以降は野球面のもっとも奥に追いやられるようになりました。1964年9月、村上雅則さんがメジャーデビューした時も3面でした。しかし、野茂英雄投手がドジャース入りしてからは一気に流れが変わりました。私は1年目の野茂のキャンプと8月に取材に行ったほか、イチロー1年目の2001年も会社から派遣されて行きました。2人とも連日1面か3面を飾るかたちになって、日々ネタを探すのが大変だった思いがあります。日本人メジャー、それもNPBで結果を残した選手の渡米ですから仕方ないわけですが、逆に日本人がからまないチームなどやワールドシリーズなどは一気に小さな扱い。個人的には日本人メジャーが登場する前の方がメリハリの利いたメジャー面だったような気がします。

 野球の記録報道も徐々に変わってきました。共同通信のコンピューター化によって、日刊スポーツ以外、テーブル、経過、打撃、投手成績に勝敗表は共同任せになっています。実は私が入社した当時は共同で契約していない時代、私はまるまる2年間は打撃30傑作り専門の日々を送っていました。きょうはこんなものを持ってきました。これはベースボール・レディ・レコナーといって打率の早見表です。入社当時は卓上のコンピューター、計算機はお店のレジのような大きなものが一台きり。それはより早く紙面用に提出する勝敗表担当者が使うもの。30傑担当の私は入社すぐ、記録の神様と言われた当時の記録部部長・宇佐美徹也からこれを渡されて、打率を書き込んでいきました。そんな日々を長く送ってきたので1990年前後でしょうか共同とオンラインとなって、勝敗表、打撃30傑、投手15傑を作成しなくなってほっとしました。

 また、調べてみますと今では当たり前のようにテーブルに入っている投手成績。1950年当時は先発完投が普通だったこともあり、打撃成績は今とほぼ同じですが投手成績がなかったのも今回、昔の紙面を見るようになって初めて知りました。調べてみますと、報知では1952年まで一切無し。53年に継投策のケースのみ個人個人の安打、回数、奪三振、与四球で失点はなし。56年から継投策チームのも上記項目に自責点が加わって、完投投手にも自責点だけ掲載された。報知で現在のような投手成績表になったのは1959年。長嶋茂雄入団でプロ野球の記事が大半を占め始めたからだったようです。ちなみに投球数は1960年から入りました。現在はまた、日刊スポーツが先鞭をつけた打撃結果が分かるボックススコアのスタイルになって、各紙とも試合経過などは割愛されヒーロー原稿全盛の時代になってきました。いわゆる試合経過、いわゆる戦評が死語になってきたわけです。
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2018/07/21(土) 22:24:19.79ID:CAP_USER9
 12月5日に行われた東京運動記者クラブ懇親会で米寿の祝いを受けた報知OBの田中茂光さんは夕刊紙からスポーツ紙にくら替えした時の生き証人。田中さんは「スポーツ紙転換は、売りあげが伸びなかった夕刊紙の報知が生き残るための苦肉の策だった。プロ野球の2リーグ分立が追い風になった」と話してくれました。報知の発行部数は1950年6月平均で10万1365部。それが10年後の1960年には37万3416部、大阪発刊後となる1970年83万4588部。1980年は江川事件があったにもかかわらず119万9469部にもなりました。ギャンブル面の拡充などもあってスポーツ紙のパイが格段に増えていったのです。ところが、インターネットが開発されて広告がじわじわと減り、それに輪をかけるかのようにスマホの驚異的な普及で売りあげも落ちています。実際の数字はもっと少なく、小さくなったパイを食い合っているのが現状です。米国でも1990年1月31日に「ザ・ナショナル」というタブロイドの日刊スポーツ紙がニューヨークを中心に発刊されました。メジャーでは1試合1ページの要領で詳しく掲載されていましたが、翌年6月13日で廃刊。時差のある米国、そしておらがチームだけなら地元紙で十分というお国柄でわずか1年半の運命でした。それを考えれば東京だけで6紙がひしめきあう東京で48年間、1紙も廃刊せずに継続しているのは奇跡と言えますが、それもあと何年持つのか危機感を募らせています。

 青息吐息のスポーツ紙。部数とともに広告収入の面でも、最も収益性の高かった案内広告が4ページから6ページ。デパート、自動車関係などのカロリーの高い広告も1970年代までは入っていましたが、今ではそれも皆無に近くなりました。かつては消費者金融はやめようという時代もありましたが、今ではそんな事も言っていられず一般紙にも登場する強精剤の広告が各紙を埋める事態になっています。その流れをあらがうかのように、各スポーツ紙、一般紙も含めてネット情報を拡充して新たな収入源を模索している状況になっています。今後どこまで伸ばせるのか、速報の競走と面白い記事で読者を引きつけられるか模索している状態です。状況はテレビ、ラジオも同様。巨人戦を含め地上波テレビでの野球中継の減少に、先日は1952年にスタートしたTBSラジオが野球中継からの撤退を発表しました。T部にはTBSだけでCS2つBSが1つ、地上波が1つと計4つの局があり、そちらでの中継スタッフ集めも大変だったから、という理由も聞こえてきます。一般の人たちが野球に離れる機会が昔から比べ極端に減ってきたわけです。

 スポーツ紙的には一般紙が総力を挙げるオリンピックやワールドカップなどは大きく取りあげるものの部数につながってこないのが現状です。スポーツ紙にとっては、野球界のかつてのような定着が必要かと思います。そこで我が社も含めスポーツ各紙は少年野球などを後援しています。野球振興という言葉はいいですが、個人的には後援してその関係者だけでも新聞を売ろうとする考えなのでは、と思っています。今後は野球に縁のない子供達にきっかけを作るのが大事かと思われます。実は1977年に小学校の学習指導要領から野球が削除されました。1998年に選択科目。そして2011年にようやく「ベースボール型ゲーム」が必修化になりました。しかし、空白の34年間はあまりにも長かった。そのため、私たちの世代には考えられない野球にまったくに縁のなかった時代を過ごした教師が多くなったようです。そんな教師をバックアップするためにNPBは昨年8月に通算6度目となる小学校の教員を対象に「ベースボール型授業研究会」なるもの開催。2016年からは12球団と連係。2016年度は23会場で1100人が受講。今年はそれを上まわる数を各地で開催しているそうです。「ベースボール型」と呼ばれるだけに、野球と違っているかもしれないですが、興味を持つきっかけになることは間違いないでしょう。「畠に種をまく人。耕して育てる人。時間がかかるでしょうが、いつか大きな実を結ぶことでしょう。今後はスポーツ新聞もこんな活動を手助けして、減りつつあるよされる野球ファン増加の一助になって欲しいと思っております。

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