野球文化學會のベースボーロジーに、昨年12月の同學會で行われた研究会のシンポジウムで発表させていただいたものを掲載しました。その原稿を当ブログにも再録させていただきました。

野球とスポーツ紙  報知新聞・蛭間豊章

 日本におけるスポーツ紙は1946年3月発刊の日刊スポーツに始まりました。次いで神戸でのデイリースポーツが1948年8月、大阪でのスポニチが1949年2月。同年12月には夕刊紙だった報知がスポーツをメーンにする紙面に衣替え。中日スポーツが1950年3月、名古屋で創刊されました。これは何を意味するかといえば、戦争直後の大野球ブームによって1940年代末に、月に野球雑誌が20誌以上出版されていました。ただ、内容がどこも似たりよったりで淘汰されつつあった時期に、より新しい情報源としての東京、大阪、そして名古屋の大都市にスポーツ紙が続々と誕生していったわけです。大阪には1950年に「オールスポーツ」が発刊、日刊スポーツに1957年に吸収されるまで存在していました。サンケイスポーツ大阪発刊は1955年2月。フジサンケイグループが国鉄スワローズへの資本参加した翌年の1963年2月に東京でもサンケイスポーツ発刊。そして、中日スポーツ系列の東京中日スポーツとしてスタートしたのが1970年3月。ちなみに夕刊紙の東京スポーツは1960年4月の発刊です。大都市へ向かうサラリーマンが年々増加したこともスポーツ紙の拡充につながったのです。

 11月は、日馬富士の暴力事件から大相撲の記事が連日1面を飾って、野球界の話題は大谷のポスティングシステムでメジャーのどこへ行くかの話題でプロ野球は片隅に押しやられている形です。昔はオフのゴルフ大会などのどちらかというと、プロ野球選手ののんびりしたプライベートが紙面を飾るケースも多かったのですが、Jリーグが始まった1993年を境に多種多様なスポーツ。そして一般ニュースなども取りあげられるようになりました。年配の方々は覚えていらっしゃると思いますが、報知新聞の場合は1面の題字の左側に3つの文字がありました。それは、用紙の統制が解かれ2ページから4ページになった1951年10月10日付けから題字が、それまでの右上からの縦だったのを横にした時からスタートしました。この年の3つの文字は、面白い事に「スポーツ、演芸、ラジオ」でした。

 明治時代に創刊された報知は、戦時中読売に併合され戦後は夕刊でしたが前記した1949年暮れにスポーツ紙となるも、当初は政治なども含めた一般ニュースも掲載。それが1951年7月19日付けで、誌面から政治、社会の記事が一切無くなった事に関係しています。翌1952年7月から1970年まで長い間、「スポーツ、文化、芸能」。1971年から3年間は「スポーツ、レジャー、芸能」を標榜していました。しかし、1973年暮れのオイルショックによる紙不足の影響もあったのでしょう。それは一切、無くなりました。これがきっかけではないでしょうが、その後はレジャーという面が少なくなり、あまり扱わなかった一般社会のニュースが徐々に増えてきました。ちなみに、1974年に読売ジャイアンツは10連覇を逃しました。その3つのモットーのような言葉が無くしたから、とは後付けの笑い話ですが。

 先ほど申しましたように、野球がメーンの報知新聞東京版を例に挙げますと、1950年代までは東京六大学、都市対抗野球にはプロ野球を超えるスペースが与えられていました。当時は春夏の甲子園は関東圏の学校が勝ち進んでいった場合を除いて現在よりも小さな扱いでした。プロ野球も1950年は2ページ、用紙統制が解除された1951年に4ページ、1955年6ページで、プロ野球は戦評(現在の試合経過)とイニング、テーブルのみというケースがほとんどでした。それでも、大阪発刊の隔週野球雑誌ベースボールニュースの1954年1月号に掲載されたスポーツ報道陣評判記によると、“老舗の日刊スポーツのベテラン記者が他紙に引き抜かれ、その穴埋めに大学のスポーツ経験者を記者として多く雇うケースが多くなって低迷している“とあります。逆に報知は”読売新聞社会部などから転任してきた記者が独自色でエピソードなどを加えたヒーロー原稿を少しずつ書くようになって部数を伸ばしている“と書かれています。もちろん、今の時代のように映像などで見られる時代ではなかったことに加え、1954年から56年はユニオンズがパ・リーグに加入しており1日7試合。スペース的に戦評を中心で何試合かにヒーロー原稿を入れるのが精一杯だったようです。