「スポーツが求められているのは、政治からの自立です」

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 国際卓球連盟(ITTF)の第3代会長を務め、小さなピンポン球で世界をつなごうとした荻村伊智朗(おぎむら・いちろう)さんの“遺言“は、現在のITTF関係者の記憶から消えてしまったのだろうか。

 スウェーデンのハルムスタッドで開催された第54回世界卓球選手権(団体戦)。女子の決勝トーナメント準々決勝で戦う予定だった韓国と北朝鮮が、急遽「南北合同チーム」を結成するというニュースを聞いた時、そう思わずにはいられなかった。

 すでにグループリーグを戦い終えた2つの国が合同チームとして決勝トーナメントの準決勝から参加し、戦わずしてメダル獲得が決まるという理不尽な事態が世界選手権の舞台で起こった波紋は決して小さくない。

 今年4月の南北首脳会談で発表された「板門店宣言」には国際競技への共同出場も盛り込まれたが、今回のITTFの対応はあまりに拙速(せっそく)で、スポーツが政治的な動きに飲み込まれた印象はぬぐえない。1991年の世界選手権幕張大会で荻村さんが結成に奔走した「統一コリア」とは、その経緯と実態がまったく違うからだ。


●「ピンポン外交官」荻村伊智朗の情熱で生まれた1991年の統一コリア

 朝鮮戦争で分断された国家をスポーツでひとつにしようという動きは、1964年の東京五輪の前からあった。国際オリンピック委員会(IOC)が統一チームとして東京五輪に参加するよう勧告し、香港で南北の関係者が会談したが、チームの名称や選手の選抜方法などで意見が一致せず、そのまま協議は打ち切られた。

 その後も1988年のソウル五輪を前に南北共同開催も含めたプランが両国で協議されたが、競技の振り分けなどを巡って紛糾。北朝鮮はソウル五輪への不参加を表明した。そうした交渉のさなか、1987年にITTF会長に就任した荻村さんは、卓球競技だけでも北朝鮮がソウル五輪に参加できる道を探ったが、そのアプローチも苦難の連続だった。

 1988年5月に新潟で開催されたアジア卓球選手権では、大韓航空機爆破事件で国家公務員の日本への入国を禁止していた北朝鮮の選手団を、「政治的な活動を一切しない」という条件付きで参加させた。しかし、朝鮮総連などが主催するパーティーに北朝鮮選手団が参加したことが「政治的活動」とみなされたことに北朝鮮の選手団が反発、大会途中で帰国した。

 翌日の朝刊には『友好卓球 政治のネット』『つまずいた荻村構想』という見出しが躍ったが、荻村さんはあきらめなかった。スポーツをきっかけに、分断された2つの国を結びつけることができると信じていたのである。

 その最大のチャンスを1991年、千葉の幕張で開催される世界選手権に求めた荻村さんは、韓国に20回、北朝鮮にも15回足を運び、統一チーム結成を訴え続けた。

 当時、その理由を尋ねた新聞記者に荻村さんはこう答えている。

「もし、終戦後のヤルタ会談で日本の分断が決まっていたら、当時、中学1年生だった私も何とか日本をひとつにしようと頑張ったはずです。スポーツが政治を動かすことはできない。でも、援護射撃はできる。スポーツの本質を曲げずに、政治が歩み寄りやすい場を設定する。それがスポーツ側にいる人間の力量です」

 当時、両国の関係者による南北スポーツ会談は統一チーム結成に向けて前向きな議論を続けたが、調印式の直前になってこれまでと同じように紛糾した。

「朝鮮戦争が休戦中なのに、どちらかが軍事境界線をまたいで合同合宿を行なうことはできない」「合宿でコンビネーションを高めないと、大会で勝てない。統一チームとして世界に恥をさらすわけにいかない」と、極めて現実的な難題が持ち上がると、荻村さんは日本の自治体関係者にすぐ連絡をとり、長野、長岡、千葉の3カ所で合同合宿をするプランを提示した。他の国の理解を得たうえでITTFの理事会にも議題をあげ、承認を得て統一チーム「コリア」の世界選手権参加を実現させたのだ。

「大会の前日までは、最大限の優遇をします。でも、大会が始まったら、あなたたちは(ITTFに加盟している)108協会のひとつです。いっさい優遇はしませんから」

 大会の開幕直前、荻村さんは南北の指導者や選手たちにそう告げるのも忘れなかった。

つづく

sportiva-spo 5/7(月) 8:01配信
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