「夢をあきらめないで」などの曲で知られるシンガー・ソングライター、岡村孝子さん(55)は平成20年1月の早朝、
大量の喀血(かっけつ)をして倒れ込む父の秀夫さんを、その腕で受け止めるという壮絶な看取(みと)りの体験をした。
秀夫さんは末期の肺がん、75歳だった。岡村さんに父との別れやがん告知について聞いた。

◆あの日に戻れたら
秀夫さんに肺がんが見つかったのは、亡くなる2年前のことだった。
医師は家族に「進行がんで、もはや手術はできない状態です。残念ですが、恐らく年は越せないと思います」と告げた。
家族は話し合って、秀夫さんに余命のことは伏せて、「必ず良くなるから抗がん剤治療を頑張ろう」と励ました。

「父は前向きな性格なので、がんでも治るなら間違いなく頑張れると思ったのですが、
半面、治らないと分かると絶望するのではないかと心配したんです」

がんに限らず、「もう治らない」ことを告知するのは難しい。「大丈夫だから、正直に教えてください」と医師に頼み込み、
医師も大丈夫だろうと判断して正直に伝えると、とたんに落ち込んでしまった、などという例は枚挙にいとまがない。

しかし、岡村さんは「やはり正直に伝えるべきだった」と語る。
「父は一度絶望しても、きっと立ち直れたと思いますし、自分がその立場だったら、いろいろ伝えておきたいことがあると思いますから」

◆最後のマッサージ
結局、何度もきつい抗がん剤治療を受けるうちに、余命の事実は秀夫さんの知るところとなった。
すると秀夫さんは、愛知県岡崎市の自宅から岡村さんが暮らす東京へとしばしば足を運ぶようになったという。

亡くなる3日ほど前も、自ら探した県内のホスピスに入る準備を済ませ、妻の千代さんに伴われて東京にやってきた。
ホスピスの医師からは当然、止められた。「いつ何があるか分からない」と。言うまでもなく、秀夫さんは最後に娘に会っておきたかったのだ。
喀血の前夜、妻の手料理を食べ、だんらんの時を過ごしていると、秀夫さんは「少しでいいから、みんなでマッサージをしてくれないか」と頼んだという。

「それで母と娘と私でかわるがわる肩をもむと、父は本当に満足そうに『ありがとう』と言って休みました。
あれはきっと父のお別れの言葉だったのだろうと思います」

◆泣きたい夜を越えて
秀夫さんの葬儀は岡崎市で営まれた。
秀夫さんは若いころ、生まれ故郷の三重県から千代さんとともに岡崎市に移り住み、タクシー会社を興した。
社長として常に先頭に立って会社を切り盛りする一方で、昭和42年に岡崎市議に初当選して以来、市議を8期務めた。
そのため葬儀は、親類や友人はもちろん会社の関係者や議会関係者ら計400人以上が集まる大規模なものとなった。

そんな中で、まだショックから立ち直れない岡村さんは「立派な葬儀だな」と思いながらも、どこか現実感が失われていたという。
父の棺(ひつぎ)には、思いをしたためた一通の手紙をそっと手向けたそうだ。
いま東京の自宅では、父の遺影を飾り、毎日お茶を供えているという。
「父は生前、お仏壇はなくてもいいから、自分のことを思い出してほしいと言っていたものですから…」

岡村さんは亡き父へのオマージュとして、「forever」という曲を作った。
「あなたは私の心に生き続ける」と、その思いを歌っている。(「終活読本 ソナエ」秋号から)

http://www.sankei.com/premium/news/171222/prm1712220007-n1.html