◆「オマエのせいで甲子園行けんかったら、一生恨んでやるからな」  甲子園投手のトラウマ


「いつか監督を殺してやる。毎日、そればっかり考えていました。
1日として監督を恨まない日はなかった。
高校野球の思い出といっても辛いものばかり……。
残念なことに3年間の高校生活で楽しいと思ったことは一度もなかったですね」

大学に入って、ピッチャーから野手に転向した大野倫(当時・九州共立大2年)は、精悍な
浅黒いマスクをくもらせ、声を落として語り始めた。
1991年、大野は沖縄水産のエースとして夏の甲子園に出場、4連戦を含む全6試合に完投し、
773球をたった一人で投げてチームを準優勝に導いた。悲劇が酷使の右腕を襲ったのは、
決勝の対大阪桐蔭戦。
試合途中で右ヒジが完全に曲がってしまい、正常な状態で腕が振れなくなってしまったのだ。

閉会式では右腕をくの字に折ったまま行進せざるをえなかった。
スタンドからそのシーンを目のあたりにした母・良江さんは
「あの子のヒジが……」
と言ったきり顔を伏せ、絶句したという。

「決勝戦はヒジがパンクして、キャッチボールすら満足にできない状態。痛みも限度を超えると、
頭がボォーッとして自分で何をやっているのか分からなくなってくるんです。
試合中、一度も勝てる気はしなかった。だから負けても少しも悔しくなかった。
むしろホッとしたというのが実感でした」

大野が右ヒジに痛みを覚えたのは、県予選が始まる前の5月だった。熊本県の招待試合で
鎮西、熊本工という強豪校相手に2連投、1日で18イニングをひとりで投げ切った。

右ヒジの痛みは日を追って激しくなり、それが原因で頭痛を併発、満身創痍のまま県予選を迎える。
ヒジをかばって変化球主体のピッチングをすると、チームメイトから

「オマエのせいで甲子園行けんかったら、一生恨んでやるからな」

と罵声を浴びせられた。大野にとって仲間の罵声は、監督の叱声にも増してショックだった。
合宿所のトイレで、人知れず涙をこぼす日々が続いた。