0001YG防衛軍 ★@無断転載は禁止
2017/08/10(木) 19:16:02.67ID:CAP_USER92017年8月2日、石川直宏は“雨男”にふさわしく、東京の湿っぽい空の下で引退会見へと臨んだ。その日の早朝、震える手で更新ボタンを押して、自身のオフィシャルサイトでファン・サポーターにメッセージを届けた。会見途中に目頭を熱くする場面もあったが、最後はスッキリとした表情で、今の思いをすべて吐き出した。それは悩みに悩んだ昨年末とは対照的な表情だった。
「振り返ってみると、いつもそうだった。悩んだ時は、いつも決断を下さなかった。いつも答えには、ふとたどり着くもの」
ここからの時間は、純度も、濃度も、これまで以上に濃くなっていくはずだ。「この半年で十分濃かったよ」と苦笑いしながら言葉を選ぶ。
「うーん……どんなことを思うんだろう。18年間、信念を貫きながら自分がどうなっていきたいかをずっと追い求めてきた。選手である以上、最後までピッチに立ちたいし、自分からポジションをつかみに行く。結果をもたらすことで、チームにも自分にもいろいろな人に影響を及ぼしたい。もっと言えば、信念を持ってやったことで結果以上のものを感じたいし、伝えていきたい。1分なのか、5分なのかは分からないけど、自分にしかできないことがそこにあると信じているし、自分もそうだけど、みんなにも何かを感じてほしい。すべてをつなげていきたいから、今を頑張れる」
まだ僕が大学生だった2002年、ナオは横浜F・マリノスでサテライトリーグにすら出場できない苦しい日々を送っていた。クラブは今後の成長を見据え、期限付きで他クラブへの移籍を検討。いくつか移籍先が浮上する中、当時から若手の育成に定評があったサンフレッチェ広島が有力候補として話が進んでいた。そんな中、熱心に彼を誘うあるクラブが現れる。それが、主力のMF佐藤由紀彦が負傷し、その代役を探していたFC東京だった。
同年3月17日、横浜FMはサテライトリーグでFC東京と対戦し、ナオは後半から途中出場。そこが運命の分岐点となった。原博実氏はその当時をこう振り返る。
「あんな面白い選手がサテライトの試合で最初から出てこないで、後半から出てきた。もったいないなって。由紀彦のケガもあったから、緊急で誰か入れなければならなくなった時に『石川ナオはどうだろう』って話が出てきた。オレも注目してたから、貸してくれるかどうか聞いてみようと。とりあえず話を聞きたいから、東京の練習が終わった午後にナオに隠れてきてもらったんだよ」
サテライトリーグの試合から約1カ月後、ナオはFC東京の練習場である小平グランドにいた。そこであの名言が生まれる。
「もし、今来たら使っちゃうよ」
あっけに取られながらも、自分の試合への飢えを見透かされた、原氏のストレートな口説き文句で心を決めた。クラブハウスを見学した翌週には荷物をまとめて東京へ引っ越し。翌日には選手の前であいさつをして初練習に参加した。
公約どおり、原氏はその週末に行われたヤマザキナビスコカップ予選リーグの清水エスパルス戦でナオを先発起用する。舞台は駒沢陸上競技場。まだ味方の顔と名前も一致しないままの状態だったが、スタジアムでは拍手と声援で迎えられた。ナオはその光景に「ここで頑張っていくんだ」という気持ちを強くした。そして駒沢で見た景色は「昨日のことのように覚えている」という。
「忘れられないよ。とにかく出し尽くすことだけを考えていた。『ここで失敗したら……』とは微塵にも思わなかった。自分がここでやりきるんだって。そういう部分では今も変わらない。できなかったら不安がすべて消え去った。なるようになるでしょって。やれることをやったら仕方ないって思いでプレーができた試合だった。あの時の達成感は、今も心のどこかにある」
あれから丸15年の月日が流れた。ナオはいつからか、《石川直宏=FC東京》という表現を使うようになっていた。あの日好きになったクラブは大好きになり、愛するクラブへと変化していった。チームのことを少しでも悪く言われると、途端に不機嫌になり、褒められると、子供のような笑顔を浮かべる。
僕にとっても、ナオは特別な選手であり続けた。この先、この仕事を続けていくか悩んでいた2008年末に、ナオから一本の電話が掛かってきた。