【格闘技】草分け女子プロレスラー、81歳にして現役だった! [無断転載禁止]©2ch.net
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草分け女子プロレスラー、81歳にして現役だった! (JBpress) - Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170718-00050540-jbpressz-life
7/18(火) 6:00配信
昭和43年11月6日、IWWA(国際女子プロレス協会)世界選手権がおこなわれた。超満員の蔵前国技館で、32歳の小畑千代が対戦したのは米国のファビュラス・ムーラ。一本目は、いきなり反則攻撃をしかけたムーラがフォール勝ち。二本目は、必ずとると決めた小畑が攻めまくる。ドロップキックからキーロック、空手チョップから、跳び蹴り、ハンマー投げ。最後は、20キロほども重いムーラをかつぎあげての飛行機投からエビ固めで仕留めた。
残念ながら、三本目は両者リングアウトで引き分けになったが、観客は大喜び。よほど素晴らしいファイトだったのだろう、厳しさで知られた日本レスリング界の父・八田一朗が「とにかく文句なしに面白い」というコメントを東京スポーツに残している。
東京12チャンネル(現、テレビ東京)がこの試合を2週間ほど後に放映した。当時、視聴率があまりに低かったため「視聴率番外地」と他局から呼ばれていた同局が、なんと24.4%とという、開局以来最高の視聴率を記録した。
“小畑千代といえば、知る人ぞ知る女子プロレスの草分けの花形ヒロインである。彼女は、小柄ながら切れ味の鋭い技といい、プロレスの盛り上げ方のうまさといい、大向こうを唸らせる演出の名手だった。わたしなども、テレビの画像を食い入るように見入り、その闘志あふれる闘いぶりに舌を巻いたものだ。小畑千代という名プロレスラーの登場によって、女子プロレスというものの存在が戦後の日本の社会にあって、一気に注目されるようになった。
(稲垣正浩・日本体育大学名誉教授・スポーツ史)”
まったく知らなかった。『スター誕生』の決勝で山口百恵の後塵を拝して芸能界入りをあきらめ女子プロレスラーになったマッハ文朱がはしりかと思っていた。
この試合がおこなわれた昭和43年といえば、藤純子(富司純子)が女博徒・お竜を演じた東映任侠映画『緋牡丹博徒』が公開された年でもある。「闘う自立した美しい女」が受け入れられる素地ができつつあったのだろう、女子プロレス番組はレギュラー化され、20%という高視聴率をあげるようになる。
■ きわもの扱いだった女子プロレス
小畑がプロレスを始めたのはまったくの偶然だ。「東京女子プロレス」の求人広告に応じようとした妹を止めに行ったところを見込まれ、その場で入門したのである。練習は厳しかったが、運動神経に秀でた小畑は、努力と研究で実力をつけていく。そしてデビューしたのが昭和30年、55年体制が築かれ、高度経済成長に突入していく時代だった。
当時のことである。女子プロレスはきわものと思われがちだった。なので、お色気は御法度。コスチュームはスクール水着のような紺色で、脚の付け根にはゴムがいれてあり、下着など絶対に見えないようになっていた。それでも「もっと股を広げろ!」などという下品な野次を飛ばす客がいたりした。そんな客に小畑は黙ってはいない。試合を中断して客席に降りて一喝する。
“若い子が一生懸命、汗水たらして鼻血を出してやっているのに、何が股を開けだ、ばかやろう。お前がリングに上がってこい。私がやってやるから”
客は当然縮み上がって黙り込む。しかし、これはまだましな方だ。タッグを組む佐倉輝美と示し合わせて、対戦相手の外人をリングの外に落として場外乱闘に持ち込み、そんな野次を飛ばした客のところまで髪の毛をつかんで引っ張っていく。そして、外人選手によけられたふりをして客を殴ることもあった。こうなったら、野次も命がけだ。
東京女子プロレスはわずか2年後に解散となってしまうが、小畑らは新たな団体をたちあげることなく、いまでいう「インディペンデント」として興行をおこなうことにした。国内の巡業で大人気だったのみでなく、韓国、復帰前の沖縄、ハワイへも遠征している。
(続きはソース) >>1
1976年以降40年以上リングに上がっていない人はレスラーとは呼べないよな。
その後様々な団体が現れて、望めば試合には出れるんだから、試合に出ずにそれ以前の名声で飯食うというのは、すでに引退している人の生活スタイルだ。 トリッシュとかリタとかステイシーが50年後ぐらいにおばぁちゃんになって
メイヤングやファビュラス・ムーラみたいにWWEにでるだろうか?
怖いもの見たさで見たいw マッハ文朱ってもう81歳なのか
てことはクラッシュも還暦過ぎてるんだな 際物だけど、ジョンシナやロッククラスのスターは4大スポーツでも一人握りしかいない
けどな。 ダンプ松本57歳
ジャガー横田55歳
堀田祐実子52歳
だから全員集合の女子プロレスコントに出ていた全日本女子プロレス往年の
赤城マリ子 トミー青山 佐藤ちの ミミ萩原など60歳近いからなあ。
女子プロレスコントは全日本女子のリングをそのまま使ったので盆回りでバラせない
(こんなことしたらバラすだけで全員集合終わっちゃう)からリングの下に台車を付けて
転がして撤収させていた。 全日本女子プロレスの旗揚げ時代はストリップとかのどさ回りの中で試合していたと言うからね。
無論リングはないから体操用のセーフティーマットにカバーを被せただけのリングでやっていた。
今のアイスリボンの旗揚げと似た感じだった。
(アイスリボンも旗揚げ当時はリングはなくマットだけで試合をしていた。
最初は全日本女子の旗揚げと同じ器械体操用のセーフティーマットを使ったが、
クッション性がなくて大技とかが使えず後に柔道の投げ込み練習用マットを改造して使っている) >>13
存命
広島で飲みの店をやってたはず
あの人はいろいろ変わるから今もそうなのかは不明だが訃報は聞いてない
女子プロ時代のことを吉田豪がインタビューしに広島に赴いてる
インタビューでは「バカだったから会社の言いなり。今だったら弁護士通して」を連発していたw >>1
>まったく知らなかった。『スター誕生』の決勝で山口百恵の後塵を拝して芸能界入りをあきらめ女子プロレスラーになったマッハ文朱がはしりかと思っていた。
元々は猪狩兄妹の興行団の出し物だったスポーツコミックショーの中の「女子レスリング」が始まりとも
スポーツコミックショーが出し物として固まる前にやっていた「ガーターベルト争奪戦(戦時中、パン猪狩が上海or香港あたりで見た飲み屋のショーをヒントに始めた、とも言われている)」が元になっている、とも言われている
米軍占領期、米兵慰問という事で各地の米軍基地内で楽曲演奏とコントショーをやってるうち「他の米軍向け興行団にない出し物を」と言う事で体を張ったドタバタコント=スポーツコミックショーが作られていったらしい
ショパン猪狩の回想によれば、ショーの〆は女子同士レスリングから続く男女レスリング(猪狩兄妹)で、小柄なリリー猪狩が兄を投げ飛ばすたびにどこの基地でも米兵大熱狂だったとの事
で、米兵のウケがよかったスポーツコミックショーを日劇ホールでやったところ
ラストの兄妹レスリングの時、役得として無料で見ていた警官が「エロくてけしからん!」と発狂し公然猥褻の現行犯として兄妹が逮捕される事件が起きる
事件を報じた新聞各紙の記事から庶民や他の興行団の間に「レスリング=猥褻」と言う認識が形成され
「男女レスリングは手が後ろに回ってヤバいが、女子同士なら客を呼べそうだ」と言う事で、様々な興行団が新たな出し物として「女子プロレス」を提供し始めた…
これが第1次女子プロレスブームで、小畑さんたちもこの時出てきたんじゃなかったかな?
もう少し後だったかな? ミミさんとか、際どいコスチューム着せられて
意地悪な悪役に客席に放り込まれたら
水着ズラされ触られ放題だったらしいな
オヤジども、まったく何観にきてんだよ
今なら俺もその場にいたかったが >>12
亡くなってるよ
ムーラのほうが先に亡くなった >>16
アイスリボンwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 紫雷イオって最近知ったんだけどめちゃくちゃやらしい体でプロレスしてるのな
なんでプロレスファンにしか知られてないの 観る奴が少ないしあんまりメディアでも取り上げないからな
月2回の新木場興行に来れば狭い会場だし間近で見れるが
今は首の負傷で長期欠場に入ったばかり、治ったらアメリカに行くかもしれん >>21
お前なんだよ
見てきたように語るな何歳だよ >>1
プロレスが格闘技とか知的障害でもあんのお前?w
知恵遅れなの?w >>19
確か、「聖母マリアのお告げを受けた」とか言って教団始めたんじゃなかったか。
広島の司教から、カトリックの信者は絶対に寄り付いてはいけないと触れが回った。 https://www.youtube.com/watch?v=XwKwgI-TLDc
このテーブルへのパワーボムを食らった時に
メイ・ヤングは80歳近かったはず
すごいプロだと感動したよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています