0001フォーエバー ★2021/10/17(日) 11:26:32.81ID:CAP_USER9
LOUDNESSのギタリスト、高崎晃(Photo by Yulia Shur)
40周年イヤーのLOUDNESS。2021年の最後を飾るEX THEATER ROPPONGIでの二夜連続ライブ<Ampan Night><Dragon Night>も発表され、コロナ禍を経ていよいよ彼らが本格的に動き出す!というわけで、ここでは以前Rolling Stone Japanに掲載した高崎晃(Gt)のインタビューをお届けする。
【画像を見る】1985年5月、全米ツアー中のシカゴでのLOUDNESS
16歳でLAZYのギタリストとしてプロデビュー。1981年結成のLOUDNESSでは、日本でヘヴィメタルという音楽を牽引しただけでなく、アメリカのメジャー・レーベルのアトランティックと契約して、海外進出も果たし、アルバム『THUNDER IN THE EAST』を全米74位、『LIGHTNING STRIKES』を全米64位にチャートインさせ、モトリー・クルーとともに全米ツアーを回り、日本人として初めてマディソン・スクエア・ガーデンのステージに立ち、AC/DCとツアーしたり、自らのツアーのオープニングにポイズン、シンデレラを起用したりするなど、全米、ヨーロッパを股にかけてのワールドワイドな活動をしてきた。2010年代以降も海外からのラブコールが絶えず、再び海外でのツアー、フェス出演を活発化してきたLOUDNESS。ヘヴィメタルの黎明期も、80年代の全世界的なメタル全盛時代も、今の海外のシーンもすべて見てきた高崎晃に、ヘヴィメタルについて語っていただいた。
ー高崎さんのロックの入り口は何でしたか?
高崎 小学校6年の時に聴いたレッド・ツェッペリンの2ndアルバム、ディープ・パープルの『MACHINE HEAD』。あと、クリームがちょうど解散した後で、ライブ・アルバムを出したんです。そのぐらいがロックの入り口かな。俺には姉と兄が5つ、7つ上でいて。小学校高学年の時からそういう音楽が普通に家の中で流れてる環境で育ったから、ちょっと早かったんですよ。当時は来日ラッシュで、レッド・ツェッペリンも2回来たし、ディープ・パープル、グランド・ファンク・レイルロード、シカゴとか、いろんな外タレが来てて。うちの兄弟はほとんどのライブに行ってたので、家にはコンサートのパンフレットもあったんです。
ー日本の音楽も聴いていました?
高崎 最初は吉田拓郎さんが好きで。それからチューリップとかに行って。中学生の時はバンドでキャロルとか好きで演奏してましたよ。
ーギターのある音楽が好きだったんですね。
高崎 まずエリック・クラプトンを好きになって、そこからディープ・パープルのリッチー・ブラックモアになって、ジミー・ペイジですね。一番スタンダードな流れですよ(笑)。
ーヘヴィメタルを意識したのはどこからですか?
高崎 ヘヴィメタルというと、81年ぐらいからの、いわゆるアイアン・メイデン、デフ・レパード、サクソンとか、そういうイギリスから出てきた俺らと同世代のアーティストたちで、いわゆるメタルの中でもニューウェイブな感じになりますよね。
ーNWOBHM(ニュー・ウェイブ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル)ですね。
高崎 伊藤政則さんがよう言うてましたよね。LAZYの最後の頃、80年12月に出した『宇宙船地球号』で、LAZYも「ヘヴィメタル宣言」という風にやって、自分たちで曲も作り出して、歌詞の世界はまだアイドルから脱却できてない感じはあったと思うんだけど、サウンドはだいぶハードで、自分らの理想としてたものにだいぶ近づくことができたんです。けど、ヘヴィメタルやるぞと言ってから3カ月ぐらいで、LAZYは解散しちゃったんですよね。ただ、解散して数カ月後にはもうLOUDNESSを立ち上げてて。ちょうど世界的にも、イギリスからもアメリカからも、俺らと同世代のアーティストがたくさん育ってきてたんですよね。たぶん俺らと同じで、ツェッペリンやディープ・パープルを聴いてきた連中らが、20歳ぐらいになって出てきてたんやと思うんですよ。それが後にアメリカではLAメタルになっていったりするんです。だから、ヘヴィメタルっていうワードで展開していったのは、80年代になってからじゃないのかな。
10/17(日) 10:45配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/c7eeb7e4a1cb59f8b481c57f2b945792b3cf1be0?page=1
https://i.imgur.com/TaSJqgx.jpg
40周年イヤーのLOUDNESS。2021年の最後を飾るEX THEATER ROPPONGIでの二夜連続ライブ<Ampan Night><Dragon Night>も発表され、コロナ禍を経ていよいよ彼らが本格的に動き出す!というわけで、ここでは以前Rolling Stone Japanに掲載した高崎晃(Gt)のインタビューをお届けする。
【画像を見る】1985年5月、全米ツアー中のシカゴでのLOUDNESS
16歳でLAZYのギタリストとしてプロデビュー。1981年結成のLOUDNESSでは、日本でヘヴィメタルという音楽を牽引しただけでなく、アメリカのメジャー・レーベルのアトランティックと契約して、海外進出も果たし、アルバム『THUNDER IN THE EAST』を全米74位、『LIGHTNING STRIKES』を全米64位にチャートインさせ、モトリー・クルーとともに全米ツアーを回り、日本人として初めてマディソン・スクエア・ガーデンのステージに立ち、AC/DCとツアーしたり、自らのツアーのオープニングにポイズン、シンデレラを起用したりするなど、全米、ヨーロッパを股にかけてのワールドワイドな活動をしてきた。2010年代以降も海外からのラブコールが絶えず、再び海外でのツアー、フェス出演を活発化してきたLOUDNESS。ヘヴィメタルの黎明期も、80年代の全世界的なメタル全盛時代も、今の海外のシーンもすべて見てきた高崎晃に、ヘヴィメタルについて語っていただいた。
ー高崎さんのロックの入り口は何でしたか?
高崎 小学校6年の時に聴いたレッド・ツェッペリンの2ndアルバム、ディープ・パープルの『MACHINE HEAD』。あと、クリームがちょうど解散した後で、ライブ・アルバムを出したんです。そのぐらいがロックの入り口かな。俺には姉と兄が5つ、7つ上でいて。小学校高学年の時からそういう音楽が普通に家の中で流れてる環境で育ったから、ちょっと早かったんですよ。当時は来日ラッシュで、レッド・ツェッペリンも2回来たし、ディープ・パープル、グランド・ファンク・レイルロード、シカゴとか、いろんな外タレが来てて。うちの兄弟はほとんどのライブに行ってたので、家にはコンサートのパンフレットもあったんです。
ー日本の音楽も聴いていました?
高崎 最初は吉田拓郎さんが好きで。それからチューリップとかに行って。中学生の時はバンドでキャロルとか好きで演奏してましたよ。
ーギターのある音楽が好きだったんですね。
高崎 まずエリック・クラプトンを好きになって、そこからディープ・パープルのリッチー・ブラックモアになって、ジミー・ペイジですね。一番スタンダードな流れですよ(笑)。
ーヘヴィメタルを意識したのはどこからですか?
高崎 ヘヴィメタルというと、81年ぐらいからの、いわゆるアイアン・メイデン、デフ・レパード、サクソンとか、そういうイギリスから出てきた俺らと同世代のアーティストたちで、いわゆるメタルの中でもニューウェイブな感じになりますよね。
ーNWOBHM(ニュー・ウェイブ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル)ですね。
高崎 伊藤政則さんがよう言うてましたよね。LAZYの最後の頃、80年12月に出した『宇宙船地球号』で、LAZYも「ヘヴィメタル宣言」という風にやって、自分たちで曲も作り出して、歌詞の世界はまだアイドルから脱却できてない感じはあったと思うんだけど、サウンドはだいぶハードで、自分らの理想としてたものにだいぶ近づくことができたんです。けど、ヘヴィメタルやるぞと言ってから3カ月ぐらいで、LAZYは解散しちゃったんですよね。ただ、解散して数カ月後にはもうLOUDNESSを立ち上げてて。ちょうど世界的にも、イギリスからもアメリカからも、俺らと同世代のアーティストがたくさん育ってきてたんですよね。たぶん俺らと同じで、ツェッペリンやディープ・パープルを聴いてきた連中らが、20歳ぐらいになって出てきてたんやと思うんですよ。それが後にアメリカではLAメタルになっていったりするんです。だから、ヘヴィメタルっていうワードで展開していったのは、80年代になってからじゃないのかな。
10/17(日) 10:45配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/c7eeb7e4a1cb59f8b481c57f2b945792b3cf1be0?page=1
https://i.imgur.com/TaSJqgx.jpg