0001湛然 ★2021/01/21(木) 06:08:10.56ID:CAP_USER9
「少年隊はクオリティが異常だった」格差が生まれた“本当の理由”と再結成の布石となる“超高額商品”
1/20(水) 17:12 文春オンライン
https://news.yahoo.co.jp/articles/79f4acc97b9f832ef817b7c02a93fc9d4000032e
(※抜粋)
■「少年隊は自分の最高傑作」
少年隊は1981年に「Bチーム」という名前で錦織、植草、松原康行の3人で結成された。1982年に松原の代わりに東山紀之(54)が加入して少年隊となり、田原俊彦(59)や近藤真彦(56)のバックダンサーとして活動。そして満を持して、1985年12月12日に「仮面舞踏会」でデビューした。翌年のレコード大賞最優秀新人賞に輝き、紅白歌合戦では白組キャプテンの加山雄三が「仮面ライダー」と紹介したハプニングもおなじみだ。
「一昨年亡くなったジャニーさんは、デビュー前から少年隊をフジテレビの『夜のヒットスタジオ』に出演させたり、ロサンゼルスでレッスンを受けさせるなど、すごく力を入れていた。当時のジャニーさんはまだ50代で、少年隊は自分の最高傑作だと自信をみなぎらせていました」(音楽関係者)
少年隊もジャニー氏の期待に応えた。デビュー曲の「仮面舞踏会」から「デカメロン伝説」「ダイヤモンド・アイズ」「バラードのように眠れ」「stripe blue」「君だけに」「ABC」とヒットを連発した。だが、それも1989年6月発売の「まいったネ 今夜」までだった。
■時代は光GENJIからSMAPへ
「平成に入って、急激に失速した感は否めませんでした。その後に目立った楽曲は1998年の『湾岸スキーヤー』くらい。3人そろっての活動は、毎年夏に行われる『PLAYZONE』に限られてきました」(スポーツ紙芸能デスク)
少年隊失速の一因になったのが、1987年8月に「STAR LIGHT」でデビューした後輩の光GENJIの存在だ。光GENJIは「ガラスの十代」「パラダイス銀河」とスーパーヒットを連発して大ブームを巻き起こす。
「中高生の女の子には完成度が高く芸術的な少年隊より、ローラースケートを履いて悪ガキっぽい光GENJIの方が受けました。しかし光GENJIもデビュー3年くらいで失速して、1995年に解散。時代はSMAPへと移っていきます」(女性誌編集者)
光GENJIがブームを巻き起こし、SMAPが頂点を極めるなか、少年隊は変わらなかった。ジャニーズ事務所随一のクオリティを誇る歌と踊りを毎年「PLAYZONE」の舞台で披露し続けた。その舞台で共演した後輩たちは、その後ジャニーズ事務所を支える大きな力になっている。
■くっきりとわかれていった少年隊内の明暗
「TOKIOの城島茂(50)や嵐の大野智(40)などが少年隊に憧れてジャニーズに入り、少年隊の薫陶を受けてスターの階段を昇っていきました。TOKIO、V6、嵐、関ジャニ∞、NEWS、Kis-My-Ft2のメンバーたちも、『PLAYZONE』で少年隊を間近に見ることで成長していったんです。しかし2008年8月の『PLAYZONE』終了後はKis-My-Ft2らに受け継がれ、少年隊が揃って活動する機会は、その後12年以上もありませんでした」(テレビ関係者)
それ以降、少年隊内の明暗は日を追うごとにくっきりとわかれていった。
「東山は俳優、そして司会者、キャスターと幅を広げていきました。一方で錦織は俳優、舞台演出家として、植草は俳優として活動していましたが、活動はどんどん縮小していった。格差が目立ってしまいましたが、それは仕方ないこと。少年隊は人数が少なすぎたんです。
光GENJI以降は多人数アイドルグループの時代。4人以上のグループなら、1人だけ売れても他のメンバーの連帯は崩れないし、1人くらい落ちこぼれても大勢に影響はない。でも少年隊は3人。1人が売れても突出するし、1人だけ売れなくなっても目立ってしまいます。少年隊は3人そろった時のクオリティーが異常に高かっただけに、格差がはっきりしてきた30代以降はグループとしてのテンションをキープするのが難しかったと思います」(テレビ関係者)
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
1/20(水) 17:12 文春オンライン
https://news.yahoo.co.jp/articles/79f4acc97b9f832ef817b7c02a93fc9d4000032e
(※抜粋)
■「少年隊は自分の最高傑作」
少年隊は1981年に「Bチーム」という名前で錦織、植草、松原康行の3人で結成された。1982年に松原の代わりに東山紀之(54)が加入して少年隊となり、田原俊彦(59)や近藤真彦(56)のバックダンサーとして活動。そして満を持して、1985年12月12日に「仮面舞踏会」でデビューした。翌年のレコード大賞最優秀新人賞に輝き、紅白歌合戦では白組キャプテンの加山雄三が「仮面ライダー」と紹介したハプニングもおなじみだ。
「一昨年亡くなったジャニーさんは、デビュー前から少年隊をフジテレビの『夜のヒットスタジオ』に出演させたり、ロサンゼルスでレッスンを受けさせるなど、すごく力を入れていた。当時のジャニーさんはまだ50代で、少年隊は自分の最高傑作だと自信をみなぎらせていました」(音楽関係者)
少年隊もジャニー氏の期待に応えた。デビュー曲の「仮面舞踏会」から「デカメロン伝説」「ダイヤモンド・アイズ」「バラードのように眠れ」「stripe blue」「君だけに」「ABC」とヒットを連発した。だが、それも1989年6月発売の「まいったネ 今夜」までだった。
■時代は光GENJIからSMAPへ
「平成に入って、急激に失速した感は否めませんでした。その後に目立った楽曲は1998年の『湾岸スキーヤー』くらい。3人そろっての活動は、毎年夏に行われる『PLAYZONE』に限られてきました」(スポーツ紙芸能デスク)
少年隊失速の一因になったのが、1987年8月に「STAR LIGHT」でデビューした後輩の光GENJIの存在だ。光GENJIは「ガラスの十代」「パラダイス銀河」とスーパーヒットを連発して大ブームを巻き起こす。
「中高生の女の子には完成度が高く芸術的な少年隊より、ローラースケートを履いて悪ガキっぽい光GENJIの方が受けました。しかし光GENJIもデビュー3年くらいで失速して、1995年に解散。時代はSMAPへと移っていきます」(女性誌編集者)
光GENJIがブームを巻き起こし、SMAPが頂点を極めるなか、少年隊は変わらなかった。ジャニーズ事務所随一のクオリティを誇る歌と踊りを毎年「PLAYZONE」の舞台で披露し続けた。その舞台で共演した後輩たちは、その後ジャニーズ事務所を支える大きな力になっている。
■くっきりとわかれていった少年隊内の明暗
「TOKIOの城島茂(50)や嵐の大野智(40)などが少年隊に憧れてジャニーズに入り、少年隊の薫陶を受けてスターの階段を昇っていきました。TOKIO、V6、嵐、関ジャニ∞、NEWS、Kis-My-Ft2のメンバーたちも、『PLAYZONE』で少年隊を間近に見ることで成長していったんです。しかし2008年8月の『PLAYZONE』終了後はKis-My-Ft2らに受け継がれ、少年隊が揃って活動する機会は、その後12年以上もありませんでした」(テレビ関係者)
それ以降、少年隊内の明暗は日を追うごとにくっきりとわかれていった。
「東山は俳優、そして司会者、キャスターと幅を広げていきました。一方で錦織は俳優、舞台演出家として、植草は俳優として活動していましたが、活動はどんどん縮小していった。格差が目立ってしまいましたが、それは仕方ないこと。少年隊は人数が少なすぎたんです。
光GENJI以降は多人数アイドルグループの時代。4人以上のグループなら、1人だけ売れても他のメンバーの連帯は崩れないし、1人くらい落ちこぼれても大勢に影響はない。でも少年隊は3人。1人が売れても突出するし、1人だけ売れなくなっても目立ってしまいます。少年隊は3人そろった時のクオリティーが異常に高かっただけに、格差がはっきりしてきた30代以降はグループとしてのテンションをキープするのが難しかったと思います」(テレビ関係者)
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)