0001砂漠のマスカレード ★2020/01/26(日) 20:02:40.03ID:3XFh7qJc9
本日、『笑点』に登場した山田邦子さん。
芸歴40年、マルチな才能で活躍し一時代を築き上げた山田さんは、2019年6月末、長年所属していた事務所を辞めて、フリーへと転身した。
60歳を目前に新たな一歩を踏み出そうと決めた、その理由とは(構成=平林理恵 撮影=清水朝子)
* * * * * * *
事務所の退社は定年退職のようなもの
2019年6月末で39年所属していた事務所を辞めて、フリーランスとしてスタートを切りました。
まだ2週間くらいなんですけれど、いろいろなものから解放されて、今、本当に自由です。事務所にはとても感謝しています。
タレントスクールを出たわけでもなければ、師匠がいるわけでもない、ポッと出の20歳だった私をよくぞ育ててくださった。
考えてみれば、今回のことは、私の定年退職みたいなものかもしれません。会社勤めをしていた方が、長年所属した場所を去る。59歳ですからね。“定年”はすごくしっくりきました。
リセットしてからのこの2週間は、毎日新しい体験ばかりです。生まれて初めて、請求書というものを書きました。
まず近所の文房具屋さんへ請求書用紙を買いに行くところから、です。
店番のおばあさんに「『ノーカーボン』と書いてあるので、カーボン用紙も欲しいのですが」と聞いたら、びっくりした顔で「今の請求書はカーボン用紙なんて必要ありませんよ」って。
おばあさんに2枚組で複写する仕組みを丁寧に説明してもらって、なるほど納得。家に帰って書いては破り捨てること5回。ようやく1枚の請求書を完成させることができました。なかなかの達成感でしたよ。(笑)
営業活動もね、すでに2回ほど。仕事を取りにいこうと思いまして。まずは知り合いからということで、お世話になった方に電話をしてアポを取り、喫茶店で待ち合わせました。
ひとつはイベントの企画、もうひとつはテレビ番組の企画。
話を聞いていただいた結果、どちらも実現することになったんです。ギャラ交渉も自分でしました。お金の話は難しいものですね。
相場がわからないものだから「皆さんどれぐらいなんですか」とか聞いちゃって。先方も「やりにくいなあ」と言っていました。
私が事務所を辞めることを考え始めたのは、実は20年近く前、デビュー20周年を迎えた40歳のときです。
それまで次から次へと刺激的な仕事をいただいて、バラエティから歌にドラマにと広がり、私は全力で目の前の仕事をこなしてきました。
それで、20周年にあたってふと振り返ってみたのです。これまで自分は何をやってきたのか、何かを残せたのか、と。
そうしたら、命を削るように仕事をしてきたけれど、スケジュールを消化するのに精一杯で、頭の中に何も残っていなかったことに気づいてしまいました。
友達も一人もいませんでした。ピン芸人で、自作自演ですからそもそも一人なんです。もちろん作品をつくるときはチームでお稽古をします。
でも楽屋でチームのみんなと一緒にいる時間に、私は次の仕事の台本を読まなくてはならなかった。そりゃ仲も深まりませんよね。
お金だけはいただいていたけれど、つまらないことですよ、そんなのは。あの頃からずっと、このままではいけない、何かを変えたいという気持ちを持ち続けていました。
事務所には折にふれてそんなことを伝えてきたのです。
私の所属していた太田プロダクションは、関東で一番古い演芸事務所で、かつてはてんぷくトリオやトリオ・スカイラインなど、そうそうたる先輩方が所属していました。
現在は、多角化して俳優部もあれば、AKBの子たちが所属するアイドル部もあります。
いろいろな人たちの才能が融合することはいいと思うのです。でも、私の本業はお笑い芸人。仕事で一番のステイタスは、演芸場に出ることと考えてきました。
提灯が下がっていて、お客さんが木戸銭を払って入場する演芸場でネタを披露したい。
でもこの願いは何度訴えてもかないませんでした。お金にならない仕事だからなのか、私の希望を前向きに受け止め、そのために動いてくれようとする人はいなかった。
それからもうひとつ、ドラマや映画など演じる仕事が、いつからかなくなってしまったことも、残念に思っていました。
年齢を重ねることによって、お母さんだって、おばあさんだって、妖怪だって(笑)演じられるようになるわけで、私としてはしっかりやっていきたい分野でした。
https://news.livedoor.com/article/detail/17721385/
2020年1月26日 18時45分 婦人公論.jp
https://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/f/a/fad32_1716_5377dd8f_f23aca8e.jpg
芸歴40年、マルチな才能で活躍し一時代を築き上げた山田さんは、2019年6月末、長年所属していた事務所を辞めて、フリーへと転身した。
60歳を目前に新たな一歩を踏み出そうと決めた、その理由とは(構成=平林理恵 撮影=清水朝子)
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事務所の退社は定年退職のようなもの
2019年6月末で39年所属していた事務所を辞めて、フリーランスとしてスタートを切りました。
まだ2週間くらいなんですけれど、いろいろなものから解放されて、今、本当に自由です。事務所にはとても感謝しています。
タレントスクールを出たわけでもなければ、師匠がいるわけでもない、ポッと出の20歳だった私をよくぞ育ててくださった。
考えてみれば、今回のことは、私の定年退職みたいなものかもしれません。会社勤めをしていた方が、長年所属した場所を去る。59歳ですからね。“定年”はすごくしっくりきました。
リセットしてからのこの2週間は、毎日新しい体験ばかりです。生まれて初めて、請求書というものを書きました。
まず近所の文房具屋さんへ請求書用紙を買いに行くところから、です。
店番のおばあさんに「『ノーカーボン』と書いてあるので、カーボン用紙も欲しいのですが」と聞いたら、びっくりした顔で「今の請求書はカーボン用紙なんて必要ありませんよ」って。
おばあさんに2枚組で複写する仕組みを丁寧に説明してもらって、なるほど納得。家に帰って書いては破り捨てること5回。ようやく1枚の請求書を完成させることができました。なかなかの達成感でしたよ。(笑)
営業活動もね、すでに2回ほど。仕事を取りにいこうと思いまして。まずは知り合いからということで、お世話になった方に電話をしてアポを取り、喫茶店で待ち合わせました。
ひとつはイベントの企画、もうひとつはテレビ番組の企画。
話を聞いていただいた結果、どちらも実現することになったんです。ギャラ交渉も自分でしました。お金の話は難しいものですね。
相場がわからないものだから「皆さんどれぐらいなんですか」とか聞いちゃって。先方も「やりにくいなあ」と言っていました。
私が事務所を辞めることを考え始めたのは、実は20年近く前、デビュー20周年を迎えた40歳のときです。
それまで次から次へと刺激的な仕事をいただいて、バラエティから歌にドラマにと広がり、私は全力で目の前の仕事をこなしてきました。
それで、20周年にあたってふと振り返ってみたのです。これまで自分は何をやってきたのか、何かを残せたのか、と。
そうしたら、命を削るように仕事をしてきたけれど、スケジュールを消化するのに精一杯で、頭の中に何も残っていなかったことに気づいてしまいました。
友達も一人もいませんでした。ピン芸人で、自作自演ですからそもそも一人なんです。もちろん作品をつくるときはチームでお稽古をします。
でも楽屋でチームのみんなと一緒にいる時間に、私は次の仕事の台本を読まなくてはならなかった。そりゃ仲も深まりませんよね。
お金だけはいただいていたけれど、つまらないことですよ、そんなのは。あの頃からずっと、このままではいけない、何かを変えたいという気持ちを持ち続けていました。
事務所には折にふれてそんなことを伝えてきたのです。
私の所属していた太田プロダクションは、関東で一番古い演芸事務所で、かつてはてんぷくトリオやトリオ・スカイラインなど、そうそうたる先輩方が所属していました。
現在は、多角化して俳優部もあれば、AKBの子たちが所属するアイドル部もあります。
いろいろな人たちの才能が融合することはいいと思うのです。でも、私の本業はお笑い芸人。仕事で一番のステイタスは、演芸場に出ることと考えてきました。
提灯が下がっていて、お客さんが木戸銭を払って入場する演芸場でネタを披露したい。
でもこの願いは何度訴えてもかないませんでした。お金にならない仕事だからなのか、私の希望を前向きに受け止め、そのために動いてくれようとする人はいなかった。
それからもうひとつ、ドラマや映画など演じる仕事が、いつからかなくなってしまったことも、残念に思っていました。
年齢を重ねることによって、お母さんだって、おばあさんだって、妖怪だって(笑)演じられるようになるわけで、私としてはしっかりやっていきたい分野でした。
https://news.livedoor.com/article/detail/17721385/
2020年1月26日 18時45分 婦人公論.jp
https://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/f/a/fad32_1716_5377dd8f_f23aca8e.jpg