0001砂漠のマスカレード ★2019/06/05(水) 12:16:03.94ID:1LIbAu7d9
/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】
異色の経歴の持ち主
それは鮮やかな世代交代だった。
1990年(平成2年)11月21日、任天堂からファミリーコンピューターの後継機であるスーパーファミコンが発売され、
『スーパーマリオワールド』や『F-ZERO』の映像の鮮明さや拡大縮小機能の最新技術に子どもたちは驚愕する。
直後にはいったい誰が買ったのか謎だがSHARPから10万円以上するスーファミ内蔵テレビも登場。
夢の次世代マシーン、スーファミは平成という新しい時代の象徴でもあった。
同じころ、プロ野球界では巨人も世代交代を迫られていた。
84年から90年まで7シーズン、チームの中心で活躍したウォーレン・クロマティがついに退団。
人気・実力ともに球団史上最高と称された助っ人の代役に注目が集まる中、白羽の矢が立ったのがフィル・ブラッドリーである。
メジャーでの成績は1022試合、1058安打、78本塁打、376打点、打率.286。
マリナーズ時代の85年にはシーズン192安打、打率3割ジャスト、26本塁打に22盗塁と恐怖の核弾頭として君臨。
同年はオールスターにも出場、ベストナインにも選出される。
シアトルの名一番打者と言えば、左のイチローと右のブラッドリーの名前が挙がるほどだ。
59年生まれのブラッドリーは、異色の経歴の持ち主でもあった。
ミズーリ大時代はアメリカンフットボールのクォーターバックで鳴らし、
1981年1月に横浜スタジアムで行われた第6回ジャパンボウルにも全米学生選抜の一員として来日(週刊ベースボールではこの様子を「10年前のもうひとつの顔」と巻頭カラーグラビアで独占公開している)。
これまでも日米野球や日米大学野球での来日経験のある助っ人は何人もいたが、野球以外のスポーツで日本の地を踏んだ男は初めてだろう。バリバリの二刀流選手はアメフトのドラフト指名を持っていたが、
最終的に声が掛かったのは野球のマリナーズ。人生、先のことは分からない。10年後の1991年(平成3年)、今度はアメリカンフットボールではなく、ベースボールプレーヤーとして東京に降り立った。
90年はオリオールズとホワイトソックスで117試合、打率.256、4本塁打、31打点、17盗塁の成績に終わるも、巨人とは看板スター・原辰徳の9400万円を大きく上回る年俸200万ドル(約2億7000万円)の大型契約。
なぜ、32歳の働き盛りの名外野手は日本球界に来たのか? 実はブラッドリーは前年の6月と10月に左手首の軟骨摘出手術を受けている。巨人の他にもNPB数球団が調査していたが左手首への不安材料から降りたという。
セシル・フィルダー(元阪神)やビル・ガリクソン(元巨人)のように、日本球界できっかけをつかみメジャー復帰した選手も珍しくなくなった90年代初頭。
いわば故障明けのリハビリを兼ねた日本経由メジャー帰りを狙っての期間限定来日である。
それでも、大リーグ通算78アーチ中51本が中堅より右へ放ったシュアな打撃に“ミスター・ヒットエンドラン”と呼ばれた野球偏差値の高さは大いに期待され、
「クロマティの代役」「新四番候補」と高い前評判でブラッドリーはチームに合流する。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190605-00000003-baseballo-base
6/5(水) 11:01配信
https://cdn.findfriends.jp/img.sp.baseball/show_img.php
https://bunshun.ismcdn.jp/mwimgs/1/7/-/img_171911b1ce358d37d27829746b2a24b5280397.jpg
https://nipponbaseball.web.fc2.com/personal/fbatter/phil_bradley.html
成績
https://www.youtube.com/watch?v=8YxPQbzwshs
ブラッドリー・原の2者連続アーチ
異色の経歴の持ち主
それは鮮やかな世代交代だった。
1990年(平成2年)11月21日、任天堂からファミリーコンピューターの後継機であるスーパーファミコンが発売され、
『スーパーマリオワールド』や『F-ZERO』の映像の鮮明さや拡大縮小機能の最新技術に子どもたちは驚愕する。
直後にはいったい誰が買ったのか謎だがSHARPから10万円以上するスーファミ内蔵テレビも登場。
夢の次世代マシーン、スーファミは平成という新しい時代の象徴でもあった。
同じころ、プロ野球界では巨人も世代交代を迫られていた。
84年から90年まで7シーズン、チームの中心で活躍したウォーレン・クロマティがついに退団。
人気・実力ともに球団史上最高と称された助っ人の代役に注目が集まる中、白羽の矢が立ったのがフィル・ブラッドリーである。
メジャーでの成績は1022試合、1058安打、78本塁打、376打点、打率.286。
マリナーズ時代の85年にはシーズン192安打、打率3割ジャスト、26本塁打に22盗塁と恐怖の核弾頭として君臨。
同年はオールスターにも出場、ベストナインにも選出される。
シアトルの名一番打者と言えば、左のイチローと右のブラッドリーの名前が挙がるほどだ。
59年生まれのブラッドリーは、異色の経歴の持ち主でもあった。
ミズーリ大時代はアメリカンフットボールのクォーターバックで鳴らし、
1981年1月に横浜スタジアムで行われた第6回ジャパンボウルにも全米学生選抜の一員として来日(週刊ベースボールではこの様子を「10年前のもうひとつの顔」と巻頭カラーグラビアで独占公開している)。
これまでも日米野球や日米大学野球での来日経験のある助っ人は何人もいたが、野球以外のスポーツで日本の地を踏んだ男は初めてだろう。バリバリの二刀流選手はアメフトのドラフト指名を持っていたが、
最終的に声が掛かったのは野球のマリナーズ。人生、先のことは分からない。10年後の1991年(平成3年)、今度はアメリカンフットボールではなく、ベースボールプレーヤーとして東京に降り立った。
90年はオリオールズとホワイトソックスで117試合、打率.256、4本塁打、31打点、17盗塁の成績に終わるも、巨人とは看板スター・原辰徳の9400万円を大きく上回る年俸200万ドル(約2億7000万円)の大型契約。
なぜ、32歳の働き盛りの名外野手は日本球界に来たのか? 実はブラッドリーは前年の6月と10月に左手首の軟骨摘出手術を受けている。巨人の他にもNPB数球団が調査していたが左手首への不安材料から降りたという。
セシル・フィルダー(元阪神)やビル・ガリクソン(元巨人)のように、日本球界できっかけをつかみメジャー復帰した選手も珍しくなくなった90年代初頭。
いわば故障明けのリハビリを兼ねた日本経由メジャー帰りを狙っての期間限定来日である。
それでも、大リーグ通算78アーチ中51本が中堅より右へ放ったシュアな打撃に“ミスター・ヒットエンドラン”と呼ばれた野球偏差値の高さは大いに期待され、
「クロマティの代役」「新四番候補」と高い前評判でブラッドリーはチームに合流する。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190605-00000003-baseballo-base
6/5(水) 11:01配信
https://cdn.findfriends.jp/img.sp.baseball/show_img.php
https://bunshun.ismcdn.jp/mwimgs/1/7/-/img_171911b1ce358d37d27829746b2a24b5280397.jpg
https://nipponbaseball.web.fc2.com/personal/fbatter/phil_bradley.html
成績
https://www.youtube.com/watch?v=8YxPQbzwshs
ブラッドリー・原の2者連続アーチ