徳川秀忠25000VS真田昌幸1500でなんで徳川秀忠が負けてるの? [194767121]
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まぁファンタジー大河だからこんなキャスティングもアリなんだろな お前ら25000人と、80年代ヤンキー1500人のバトルを想像してみろ >>2
酒鬼薔薇とかいたやん
まあ秀忠ガイジヤシナ まあ領民を一人づつ逆さ磔して
街を焼けばマサユキ突っ込むよ そのまま居座れば勝ちだったんだろうが撤退したから負け
わざわざ大将首取る必要は無い
大人数で城だけ孤立させりゃ勝ちだったよ
真田は増えないんだから 25000も居るんだから
突っ込ませて溶かせよ
ロシアみたく 上田城に行った事があるけど、そんな大軍に対抗できそうな城には見えなかった、
現存してるのは江戸時代に作った城だけどさ >>10
徳川内府の御首取ればよい
秀頼様に弓引く大罪人を撃つと
どうせ井伊とかの小僧に大きい顔されるなら
粛清した方が良い
三河物は忠義が無い 家康と合流して三成と戦うのが目的だからスルーしないといけないのに秀忠が仕掛けて後の幸村の大坂の陣みたいに散々に撃退された。重臣が早う家康と合流しないと怒られると諌めて立ち去る。家康との合流不要なら大損害出るが力押しで城は落とせた。
>>11
真田昌幸は島津と同じ戦法を取って負けたふりして城に逃げた。
勝った追撃だと思って城に押し寄せた徳川秀忠軍に大量の鉄砲隊が待ち構えていた。 せっかく秀忠軍を足止めしたのに 関ヶ原があっけなく決着したのは昌幸としても誤算だったろうなあ 大国に翻弄される小大名の悲しさよ 昌幸「俺はただ足止めを狙っただけや
信繁「そやそや
矢沢「そやな 戦国時代の兵士は差があった
都会育ちの兵は恵まれて育ったからすぐ逃げるが東北の虫でもなんでも食って生きるっていう所謂蛮族とでは質が異なる >>18
秀忠「鯉口に飛び込め 真田は貧乏だから
鉄砲も弾薬も無いから死んでこい」 秀忠の初陣だったんでしょ?
徳川の跡継ぎに媚び売って手柄立てさせて出世しようってって輩がいたんじゃないか
ぶっちゃけ実戦経験のない秀忠は傀儡だろ >>23
家康が大嫌いな立花宗茂を教育係につけてるくらい なんで秀忠がマサユキと合って談判しないんかな?
甲斐信濃割譲すればよい
秀忠と信繁で婚姻しろよ
>>23
参謀はみんな真田昌幸に構う事に反対していた。
秀忠が親父が落とせない城落としたら手柄だなと真田を攻める事にこだわった。 秀忠25000が予定通り到着してたら、小早川の寝返りも大きくクローズアップされず
情勢の読める賢君扱いになってたかもな。 >>29
秀忠軍に真田親子がくっついて
家康本陣を襲うんじゃね? 上田城周辺の領民がこぞって真田家に味方して徳川軍に協力しなかったからだ 城田優はいいな
ジャニーズの人って、目を見ると性格が悪いような気が…最近してきた
なんか嫌な感じが
>>30
徳川秀忠「降伏しろ!」
真田昌幸「降伏したいけど家内がまとまらない。相談するから時間くれ。」
徳川秀忠「うむ。しょうがないな。」
一週間後
真田昌幸「戦争する準備は出来た。好きに攻めるがよろしい。
徳川秀忠「なんだと!このやろう!」
この時点で負けなんですよ。 結城もよくわからん
家康から冷遇されていたんだろ?
佐竹上杉と連合くんで東海を南下して
家康の背後を狙えば家督は相続出来るのに
>>36
結城秀康か?
豊臣秀頼に「秀頼に何かあったら俺が助けに行くぞ!」と声をかけて
徳川家康がキレていたな。 関ヶ原の東軍は豊臣恩顧多数
秀忠は徳川本隊の温存説もあるが、実際どうだか 適当に抑えだけ残して通過すれば戦略的勝利だった
無駄に構ったので負け あの当時な徳川兵は弱兵で戦場を知らない
10マン居ても蹴散らされる >>36
実際、伊達は関東乱入を考えていたらしい
家康は怖くてなかなか動けなかった
三成に本当にもう少し将帥の才があれは面白いことになってた 大雨で秀忠への使者到着が遅れたおかげで真田は助かったよな
当初の予定通りならスルーされてたしもっと遅れてたら大軍に踏みつぶされてた
小競り合いだけしたという丁度良いタイミングだったおかげで後世話を盛れた 元々家康は短期決戦になると思ってなかったから秀忠には信濃を制圧させて関東の防御を固めようと思っていた
それが思いがけず豊臣恩顧が張り切りすぎて岐阜城があっさり落ちちゃったから決戦の流れになった
秀忠は遅刻して家康に怒られたと言われていたけど実際は遅れたことじゃなくて間に合わせるために軍をバラバラにして大急ぎでやって来たことに怒っていたらしい
家康がもし決戦で負けて戦死した時に軍をバラバラにした状態で秀忠が関ヶ原に向かっていたら秀忠も戦死しちまうだろってことらしい >>1
秀忠軍は関ケ原に間に合えば勝ちだったから上田は無視すればいいのに、
わざわざ通りがかりの小国にちょっかいを仕掛けたのが間違い。 >>44
関ヶ原は色んな所で小競り合いやってるから秀忠の本体は温存して正解だからな。 >>25
???
立花宗茂が秀忠の教育係(お伽衆)になったのは関ヶ原から数年後でしょ
戦場で補佐してたのは大阪の陣だし
とにかく上田攻めの頃には立花は何の関係もない >>42
天気まで予想しての真田の行動だぞ
最初から秀忠には勝ち目無かった 別に負けてないわな
本気で犠牲気にせず落としにいける時代じゃなかったってだけ
もちろん昌幸もそれわかってて足止めしてるわけだが 勝ったっていうよりは関ヶ原のために戦力温存して程々で退かれたって感じじゃねえの >>38
豊臣恩顧といっても徳川の古参のように代々というのは絶無で、戦国の生き残りが武力と金とカリスマで秀吉に従っていただけで、武将として何の実績もない秀頼に心服なんかしてなかったし。
豊臣自体、半島出兵の失敗でミソをつけてたし。
半島出兵時に石田以下が恨みを買うようなこともやっていたのに対して、元々家康には武将として何目も置いてるのが多かった上に、出兵絡みで世話になって心服してるのが多かったし。
北の抑えは宇都宮に残してはいたものの、十分とは考えてなくて、本多とかの主力に様子見させたという面はあるだろうね。 >>1
城攻めなんてきほんてにせめて不利だからな
しかも時期的に鉄砲有りだから大砲でもよういしてないなら城門破れない。
攻め手25000居ても使えるのは一度に3000程度だろ一割余減らせば攻め手撤退だよ >>11
真田潰すだけなら良いけど目的は関ヶ原への参戦だから
兵隊減らせば意味がない どうでも良いけど、家康が優柔不断とか、バカ抜かすなってなもんだ。
信長みたいに果断で切れるのが、そんな優柔不断なグズなんぞと手を組むどころか、まともな人間扱いするわけがない。 >>21
これ日露戦争の頃も散々言われていたけど
太平洋戦争で東北兵はガ島・ビルマでボロクソに負けたのに対して
京都や北陸の弱兵が沖縄で最終的には壊滅したが
昭和天皇が勘違いして大攻勢を命令する程度には大健闘しているんだよな
んで戦後になると京都や北陸の自慢話はそれほどでも耳にしないが
南方戦線の自慢話はあちこちに残っている 結果的に関ヶ原は徳川本軍ほぼ無傷で終わった
岐阜城落ちた時点で既に決してた 平原での会戦じゃないんだし
1500人が準備万端でこもったら落とせんよ
数ヶ月かかる >>21
【蝦夷と贅六】
・若者のワクチン接種率
1位新潟県2位秋田県
46位大阪45位京都44位兵庫
・関西は臆病者が多いからやw
第31師団歩兵団長の宮崎繁三郎少将
「京都の祭(お公家師団)には武士の情けはないのか!」
インパール作戦の烈兵団(31師団)
高田58連隊 烈のエース、新潟・群馬出身の精鋭、『ビルマの竪琴』のモデルとなった部隊
福岡124連隊 烈の荒くれ九州部隊、京都の“弱兵”祭師団とは犬猿の仲w
奈良138連隊 烈のお荷物、関西出身の弱兵部隊w >>21
岡本岩男中佐(宇都宮33師団参謀、岡山県出身「しかし安(京都53師団)の逃げっぷりはええぞ。
戦車でも出てくると一ぺんにインオウロあたりまで逃げてしまう。出ろ、というとしばらくして出てくるがすぐまた下がる。
そして言うことがええ。弓の兵隊はんはよう辛抱してはります。
そのくせ米だけは持ってきたもんじゃけえ、毎日飯盒に半分貰って昼間から食べておる。
それが2、3日するとこんな給与ではあきまへんわ、というから弓(宇都宮33師団)の兵隊は半月も米の飯など渡っておらんぞ、と脅すと"へえ"と度肝を抜かれた顔をしておるんじゃ」
文春文庫、インパールより 家康と秀忠が同じ戦場にいたらリスクが大きい
わざと遅れたんでしょ
秀頼が出陣できなかったのも万一のときのスペアがいなかったからだし
家康が秀忠を公開説教したのはガス抜き
後継者を公開の場でダメ出ししたら家康死後の権力基盤が揺らぐから普通はしない >>66
家康が関ヶ原で敗れたら秀忠温存しても終わりじゃないの? 上田城行った事あるけど、周りに栃の木が植えてあって
「考えてんだなー」と感心した
食べるのもさることながら栃の実の焼酎漬けは
打撲にはむちゃくちゃ効く、青タンなんか1日で引く
確か城に完全な籠城したわけでなくて、
迎え撃つに当たっては策をてんこ盛りにしてて
その辺の民家にも兵を忍ばせて、
機を見て城から遊撃とばかりに打って出てたはず、
真田太平記の知識だけど >>13
大して変わらん。なんで2度も大軍を迎撃できたのかマジで謎。わかっているのは短期決戦でケチョンケチョンにして相手のヤル気を喪失させたって事。 【電磁波兵器の特許情報】Google検索
エレトロニック・ハラスメント Wikipediaに裁判結果在り
精神病院では接触型磁気刺激治療/片麻痺のリハビリでもは接触型磁気刺激治療
ヒント
@ネズミの「会話」をAIが解析して内容理解 /キノコの言語は50種類
※動植物と虫と魚類等の言語は完全に解読
A植物に自ら身を守らせる実験
全ての動物を思い通りに動かせる神の声兵器ですね
※虫も異性を追いかける習性で目的の場所へそして性的興奮を目的の場所で悪さ
@知能がある者が使用しているのならかなり自分が攻撃されないか焦りだしている
A最近等知能がないものが使用しているのなら焦らない
※菌も記憶領域があるので何と接続されているかです
悪用
毒蜘蛛/毒蛇/ムカデ/カメムシのガス攻撃/蚊による感染症
ネヅミとシロアリとモグラによる家の破壊
サメ/毒魚
※特定の者のみ攻撃可能
等一例ですがいろいろできます >>17
徳川秀忠の墓は東京タワー下の増上寺に埋葬されている。
改葬兼調査の際に大腿骨に達するほどの深い傷跡が発見されて研究者達を驚かさせた。
と、言うのも秀忠に関する記録にそんな『太股に骨まで達する大怪我』に当たる記録なんて無いからだ。
大腿骨に傷跡が残るほどの怪我と言えば生死に関わるほどの重傷と言える。
この傷は『いつ』『何処で』受けたモノだろうか?
もちろん日常生活のチョットしたミスで起きた事故の可能性もある。何と言っても現在とは比べ物に成らないほど刃物や鉄砲など危険物がいっぱい溢れていた時代であったのだから。
しかし、もし戦場で敵の襲撃で受けたモノだとしたら?
徳川秀忠が実戦に参加した戦(いくさ)は3回しか無い。
まず初陣だったこの関ヶ原の時の上田城攻め。
2度目は大阪冬の陣。
最後は大阪夏の陣だ。
この内冬の陣は別段危なかったシーンの記録は無いので除外して良いだろう。
と、なると秀忠は大阪夏の陣か関ヶ原の時の上田城攻めで敵の襲撃を受けて太股大腿骨にまで達する生死に関わるほどの重傷を受けた。
と考えるのが一般的だろう。少なくとも日常生活で偶然と言うよりは無理は無い。
では、ドッチの方があり得るのか?
実は大阪夏の陣にも秀忠ピンチのシーンが何度も出てくる。木村重成と長宗我部盛親の部隊に突撃攻撃された時だ。
この時秀忠の本陣にまで敵兵士が乱入し、身辺警護をしていた柳生但馬守宗矩が自ら敵兵を16人斬ったなんて記録もある。
この他にも地元大阪の商人の証言によれば「近くの水の中に逆さま状態で突き刺さっていた秀忠を自分が助けた」なんてのもある。
当然秀忠が重傷を負った可能性は充分にあり得るだろう。
しかしもう一方の関ヶ原の上田城攻めの時に重傷をおったとすればどうだろう?
関ヶ原への大幅遅刻も、到着後の家康からの面会謝絶も、全てシックリ説明が付いてしまわないか?
アレは家康が怒って会わなかったのではなく、秀忠が生死の境を彷徨うほどの重傷で会えなかったのが真相では無かろうか?
つまり、この上田城攻めで秀忠は「真田昌幸の時間稼ぎによって手玉に取られた」のではなく、実際には討ち死に寸前の大敗北を期してしまったのではないだろうか?
まあ証拠は全く無いんだが。 >>26
猫の額程の土地を真田に盗まれた恨みを晴らしたかった 当たり前だろ
上田城攻めなんて当初の計画に無かったんだから
戦略も無しにノリで数に任せて力攻めしたって落とせる訳がない
しかも相手は真田さんだぞ 少し前に西軍四万も鳥居元忠率いる二千五百相手に伏見城で足止め喰ってたろ >>4
ちょっとわかりやすい
昌幸とかもう半グレなイメージw >>71
冬の陣でそんな大怪我してたら夏の陣に参加は無理だろ
それともその間江戸に戻らずに夏の陣は寝たきりで名目大将なのか?
やはり上田城かな 生死に関わるほどのケガしてるのに関ケ原まで行くもんなの? >>71
秀忠の傷跡は「骨まで達した複数の銃創痕」だそうで、上田城攻めでついた傷とは考えにくい >>67
本能寺の変で織田家にとって致命傷だったのは信長の長男も討ち取られてしまったこと >>10
どっちにしろ間に合わんかったやないかーい! >>84
有楽斎が逃げてるんだから逃げようと思えば逃げられたはずだよね
少なくとも信長なら躊躇なく逃げてたと思うし、その辺が父親に劣ってた まぁ、でも真田昌幸は自分の土地への執着が強すぎて大局で負けたよね
徳川を2度も追い散らしたってだけで割と過大評価なのでは?と思うこの頃 >>89
真田昌幸の真骨頂は徳川軍を2度撃退したことではなく
徳川北条上杉の大勢力を天秤にかけて数年で大名に成り上がった外交手腕だと思う >>89
大阪冬の陣も合わせれば3度だな
真田に全権を与えていれば、夏の陣も退けられた 家康の影武者説よくきくけど実は秀忠も影武者だったとか! >>19
小早川ばっか叩かれているが毛利がやる気ない時点で勝てるわけがない 負けたんだっけ?
勝てないでモタモタしてるうちに、
遅参したから激おこされたって話かと思ってた >>90
世渡り上手ではあったけどね
最期に『豊臣恩顧の大名』ってモノがどの程度のモノか見誤った
絶対的カリスマを失うとどうなるか信長の死で知っていたはずなのにね 西軍は大軍を擁しながら木曽川という天然の要害を三法師さまだけに守らせてあっさり突破されてる
意味がわからないぜ 戊辰戦争も緒戦の鳥羽伏見は、徳川軍1万5千人vs薩長軍5千人。
3:1なのに徳川軍が敗走したもんな。 伊達政宗だって途中で戦争下手になってる
本当は途中まで指揮をとってたのは別人ではないかという話もある
あの時代の話の方が実は徳川の天下が続いてものすごくわかりにくくなってる
秀吉も朝鮮出兵批判されてるがあれは信長の影響というより
秀吉は天才的な経済政策でのし上がったが日本統一して褒美が
あげられなくなったため仕方なくでちょっと意味合いが違う 秀忠は今川氏真レベルにディスられる凡将だよね
ただ周りが優秀だったかし家康が長生きしたから統一できてた
家康が死んで早めに代替わりしてたらまた戦国時代復活してたな >>86
信長信忠両者ともに死体が見つかってない
にもかかわらずなぜか切腹したことになってる
火薬で吹っ飛ばされたとみる方が無難 徳川が勝てば儒教臭い日本になり、豊臣or黒田官兵衛が勝てばキリスト教の走狗
終わっとる >>67
みな1日で関ヶ原が終わるとは思ってなかった >>86
信忠自害は、逃亡中に光秀に捕らえられる可能性が高いから、その恥辱を考慮したんだろうな
有楽斎は京童に人じゃないよと笑い者になったが、いちおう子孫が小大名として明治を迎えられたし これ西田敏行が津川雅彦に激おこされた話よな
あの頃の大河面白かったな >>83
いや待て、銃創なら尚のこと上田じゃね?
銃による傷が複数なら日常での遊びや事故ではあり得ないし、戦場に出たのは第2次上田合戦(関ヶ原)と大坂冬の陣・大坂夏の陣の3回しか無いワケだから、
骨に傷跡が付くレベルの重傷の治療期間は、やはり関ヶ原の遅刻と家康からの面会謝絶の時期しかあり得なくね? >>86
有楽斎って「もうダメだ、みんな死のう」って言って部下全員自害した後で「ウッヘェ痛そう。俺無理だわ」って1人でコッソリ逃げたんじゃなかったか?
ソレを信長の後継者である信忠にやれと? >>105
津川家康「たわけ!うつけ!まぬけー!」
岩下志麻(当時59歳)のお江の方が何かメチャクチャ可愛かったよな。 >>103
西軍が雑魚過ぎた
よく幕末モノだと関ヶ原の恨み云々出てくるけど
どう考えても恨むなら徳川じゃなくて毛利一族だよな
当主は戦場に出てこないし吉川も小早川も裏切り >>103
真田丸で真田昌幸が徳川を追い散らして勝ったのに敗軍の将になってしまってどうしてこうなった?状態になってたからな >>86
天下人の後継者が逃げて落ち武者狩りにあって土民に首を取られて、それを光秀に差し出され、首と胴体を縫い付けた後磔にして晒し者にされるとか織田家の武威に関わることだから >>102
キリスト教を禁じたのは秀吉じゃないか
家康は白人をブレーンに登用してる 光秀が叛いた、と聞いて信長が逃げるのを諦めたくらいだから信忠が逃げるのを諦めても仕方ない気もする
実際はそこまで計画的に見えないから信忠は逃げられたと思うが 沸騰したうんこ爆弾落とされて死んだ味方を踏み越えて攻城なんてむりぽ 真田って笑うよな。10万石の為に2代かけて必死ww >>103
暴れ足りない黒田如水が怒ってたな
三成にも息子にも >>59
京都兵はレイテで1日で壊滅しているw その後東京兵の玉は数倍の米兵と70日も激戦している >>117
ゴリゴリの戦国を生き抜いた百戦錬磨の大軍師、黒田官兵衛ですら
一日で終わると思ってなかったんだもんね。
当事者の西軍も東軍も驚いたろな。 >>120
それが『豊臣恩顧の大名』の実力なんよ
海千山千の徳川の前ではそんなもんなのさ
でも、後の徳川の世に伝えるならば西軍も真田も『強敵』として伝えなくては東照大権現様の武辺話としては締まらない
まぁそう云うことなんでしょうな >>86
有楽斎なめるな、奴は幽斎と並ぶ生きる達人だぞ 三成が高禄で召し抱えたのと戦後東軍がその戦いぶりを称賛したからだろうな
江戸時代、忠臣として三成を称賛出来なかったからその忠臣だった左近を称賛したのもあるだろう >>109
雑魚ちゅうか決戦する必要があったか
なしで膠着してる間に自領増やそうと画策してた連中はがっかり >>126
筒井家を実質1人でまとめていて政治家の能力を買われていたっぽい(特に秀吉に)
でも戦下手の三成には、軍師として最適解を出しているし(三成が受け付けてないけど)
軍人としても、大谷吉継と並んで東軍を震え上げさせる猛将ぶりを見せている
家康が、西軍でまともに戦っているのは2割なのに勝てないってブツクサ言ってたその2割の人 >>127
駄目なボス(三成)を最期まで見捨てなかった人 >>119
スゲーぞ。
西田敏行が馬術上手いってのもあるけど、津川と西田が2人並んで馬乗ってて急に津川が笑いながら西田の乗っている馬の尻を鞭で叩くんだよ。
西田は笑いながら「何をなさいます?」って抗議すんだけど、何かこのシーン良いんだよね。
家康がまさに「はしゃいでる」感が良く出てる。
今は絶対無理なシーンだわ。ってか西田敏行馬術上手すぎるだろ。 >>97
要害に見える岐阜城だけど
実は織田豊臣政権が何回か落としてて攻略法が確立されてたらしいぞ >>136
その前に何度もおちてんだろw
道三しらんか >>135
昔の俳優は武芸所作を最低限(高レベル)身に付けてたよね >>131
ちなみに島左近は柳生新陰流で有名な柳生一族とも仲が良く
(詳しい事とソースは忘れたが柳生が何か苦しんでいた時期に島左近がずいぶん援助したらしい)
島左近が関ヶ原で破れてそのまま行方不明になった時、島左近の娘は柳生に引き取られた。
ご存知の通り柳生新陰流は江戸徳川本家の剣指南役になるんだが、コレは三男(いや四男だっか)柳生但馬守宗矩で長男家は尾張徳川家に仕えるんだけど、
島左近の娘は最終的にこの尾張柳生の嫁になるんだよね。そんで彼女が産んだ子供が更に尾張柳生の跡を継ぐ。
まあこの子供(連也斎だったか?)に子供が無かったから島家の血統もココで途絶えちゃうんだけど。
ちなみに尾張柳生家は連也斎のお兄さんの子供が継ぐ。 >>113
秀頼は背に腹は代えられないからキリシタンの明石に勝ったあかつきにはキリスト教布教を認めるとか言うてる 戦後秀忠は武功なくて軽んじられる
つまり真田をわからせなければいけない
すりつぶせ塀共シネや >>118
玉の師団長片岡さんは善人ではあるが凡将だった
序盤の作戦ミスから千葉の佐倉連隊が米軍の猛攻を一手に引き受ける事になるが
五十日間粘り抜き、敵である米軍から日本最強部隊と称賛された
東京連隊、歩一は命知らずの勇敢な部隊で
山猿部隊と恐れられた甲府連隊よりもレイテ戦後半の主役として活躍しているが、戦死率は最も高かった
京都の垣では三重の連隊が頑張ったが、京都の2個連隊はほとんど何もせず山中へ逃走 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています