「東洋一のつり橋」をたどれば73人犠牲の事故 若戸大橋を重文指定へ
2021/11/20 6:00 西日本新聞

国の文化審議会が重要文化財への指定を答申した若戸大橋は「東洋一のつり橋」として開通し、その後に続く日本のつり橋建設技術の礎を築いた。
高度経済成長期、重厚長大産業で発展した北九州市の“象徴”として親しまれてきた橋にまつわる吉報に、関係者からは喜びの声が上がった。

若戸大橋は1959年の着工。長さは当時、東洋一と評された長崎県の西海橋(316メートル)を大幅に上回った。
北九州市によると、動員された労働者は約61万人に上り、東京タワー五つ分に当たる約2万トンの鋼鉄が使われたという。赤一色に染められたのは「威厳を示すため」とされた。

文化審が評価したのは橋の設計技術だ。旧建設省や東京大の研究チームが米国で学んだ上で、独自の架橋技術を開発。コンピューターがなかった時代、
光の屈折を利用して橋のひずみを計測し、強風に耐えられるケーブルを設計するなど研究の粋を結集した。こうした成果は、地元の関門橋(1068メートル)や、
明石海峡大橋(3911メートル)の建設に受け継がれた。

若戸大橋ができたきっかけは、30年に起きた痛ましい事故だ。若松、戸畑両区にまたがる洞海湾で渡船が転覆し、73人が死亡。
橋やトンネルを求める機運が高まったが、戦争で頓挫した。高度経済成長期に車の利用が大幅に増え、着工につながった経緯がある。

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