三重出身の陸軍大将の手紙発見 薩長への対抗心克明に
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旧陸軍大将の手紙発見 三重出身、薩長への対抗心克明に
旧桑名藩士から維新後、陸軍軍人に転じ、三重県出身で唯一、陸軍大将を務めた立見尚文が実兄に宛てた手紙など、新たに見つかった史料が、三重県桑名市京町の市博物館で展示中だ。杉本竜館長(46)は「立見尚文が心許せる兄に宛てた手紙には、赤裸々な心情が記されている。貴重な史料だ」と話している。
博物館によると、立見は桑名藩士の町田静臥の三男として出生。幼少期に桑名藩の立見家の養子となり、藩主・松平定敬の身辺に仕える小姓を務めた。
従軍した戊辰戦争では、幕府側に立った桑名藩が降伏開城した後も、実兄の町田武須計(ぶすけ)らとともに主戦派の中心として東国に転戦。幕府軍の土方歳三らと宇都宮城を落城させる活躍を見せた。その後の東北戦争で最後まで抗戦した庄内藩とともに降伏。出羽庄内(現在の山形県鶴岡市)で謹慎生活を送った。
戊辰戦争後、新政府軍の敵側だった立見は、陸軍では出世が望めないと考え、いったんは軍人を辞め、裁判官になった。だが、軍略と統率力を買われて、1877(明治10)年の西南戦争で再び戦場へ。西郷隆盛を討ち取る部隊を率い、勝利の立役者になったことから、その後の軍歴が開花。日清、日露両戦争でも指揮官として活躍し、1906(明治39)年、陸軍大将に昇進した。
今回、新たに展示している史料は、立見の実家である桑名市の町田家で見つかった実兄に宛てた手紙など計52点。晩年までの約28年間にわたり、実兄との交流がわかる史料で、2017年夏ごろから町田家から寄贈されたものを、杉本館長が調査研究してきた。
手紙からは維新後も、故郷の桑名を愛し、薩長への対抗心を持っていたことがうかがえる。
例えば、日清戦争直前の陸軍少将だったときの手紙には、「多年養成する桑名魂を天下に表白するも亦此(またこ)時機に在り(原文まま)」と記して、「いまこそ桑名魂を見せる」と宣言。また「薩人の参謀長たる者今日此際休められ是れに代るもの者が我々薩長以外の人ならんとは豈大愉快(あにだいゆかい)(原文まま)」と書き、自分のような賊軍出身の人物が参謀長になることを「愉快だ」と誇り、薩長への対抗心をあらわにしている。
杉本館長は今回の展示品について、「軍人よりも個人としての立見尚文を知ることができる史料。読み解きを進めるにつれ、立見大将のプライベートの様子や赤裸々な心情が見えてきて興味深かった」と話す。
展示は11日まで。入館料は150円(中学生以下無料)。月曜休館。問い合わせは桑名市博物館(0594・21・3171)。(佐々木洋輔)
朝日新聞社
https://news.yahoo.co.jp/articles/498b58256120aa23906d864a71649c490485155e 西郷隆盛って病気でキンタマ巨大化して馬に乗れなかったんだぜ 桑名藩は本多忠勝開祖→本多家転封で松平家〜って感じだっけ
そりゃ対抗意識燃えまくりやろ >>1
同じ佐幕派出身で陸軍中将で退役した
東條英教は大将に昇進出来なかったのは陸軍長州閥のせいにし逆恨みして
息子の東条英機に長州閥への復讐を託したが大いなる勘違いだったんだな
勘違いが日本滅亡に追いやるとは・・ 日露戦争かなんかの時
薩長出身の将軍たちが戊辰戦争の自慢話をしてたら
「あの時お前たちは俺の前から逃げ回ってたくせに」
と一喝して黙らせたらしいね 敵方を見方にした薩長って懐が大きいよな!?ww
こんな手紙書いてる徳川方はケツの穴小さい連中の集まりやったんやろな…… 維新後の桑名藩士の小説だと浅田二郎のが面白かったな >>15
西南戦争で旧佐幕派藩士が西郷隆盛への報復の意味で軍や警察に志願した
百姓出身の陸軍兵士より強かった警視庁抜刀隊の活躍は有名 敵だったのに能力だけで大将に登り詰めるとか本物やん >>21
長州は維新で有能な奴は殆ど死んだんだよ、残りかすの伊藤(女好き)や
山縣(庭作りだけは上手かった)たちは皆小物 >>17
と言われている警視庁抜刀隊の主力は、実は西郷軍と同じく旧薩摩藩士 >>23
ただ、伊藤も山県も生き残った中では大物になっただけあって、
単なる小物でしかない連中よりは人物に奥行きがあったように感じられるな。 柴 五郎 1860年6月21日(万延元年5月3日) - 1945年(昭和20年)12月13日)は、日本の陸軍軍人。
軍事参議官・台湾軍司令官・東京衛戍総督・第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る。
義和団の乱の防衛戦で活躍して賞賛を浴び、欧米各国から数々の勲章を授与された。
会津藩士(280石)・柴佐多蔵の五男として生まれた。会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。
上記の通り、故郷の会津が薩摩勢に甚大な被害をもたらされ、自らの家族も犠牲にあったため、
薩摩の西郷隆盛や大久保利通の死を「一片の同情もわかず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なり」として喜んだと回顧している。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています