(前略)
大陸と韓半島は距離が近いが倭地は大陸から遠く、当時は海上交通が発達していない時代で倭の奈良百済を自治的に統治する王を置いたが、これを天皇と呼び総督の様なものだった。
サマは生まれるとすぐに生母とともに大陸百済に戻ったが、政治的状況が非常に不安で奈良百済にある昆支に再び送られた。
このように百済王室が王子を勝手に倭地の奈良百済に送ったり連れてきたりしたのは、奈良百済が百済が支配する領土だったからだ。百済は王子だけでなく、
百済の文物を倭の奈良百済に伝達するために百済住民を大挙移住させた。403年(応神14年) 2月、百済の縫衣工女が奈良百済に渡り、これが日本列島で衣縫の元祖だ。

工女が一人で行ったわけではなく大移住集団の一員として行ったが、移住集団は日本列島全域120余りの県に散って暮らしながら百済の文物を伝播した。
当時、倭は衣服もない新天地島で、このような先進文化を持つ百済の大民族集団が移住した事実はすなわち百済が日本列島を開拓し、さらには日本列島全域を建設したことを立証する。
文字もなく衣服もない原始生活をする原住民世界に文字や各種の技術、馬など高度な先進文化を持つ百済の大移住集団が日本列島に上陸したとすれば、
当然この集団から統治者である王や天皇が出なければならない。史録によれば、倭の奈良百済・応神天皇も百済住民大移住集団から出た天皇であり、同時に奈良百済初の天皇だった。
475年、高句麗の攻撃で百済の都城が崩れ蓋鹵王が捕えられて死ぬ時、彼の王子はみな死んだがサマ(島)は倭の奈良百済にいたので死をまぬがれて王位に上がることができた。
(中略)
倭地の奈良百済も小王国と戦って領土を拡張しながら日本国建設の土台を用意していった。この時、奈良百済の領域は四国島と向かい合う本州の凸のように出ている奈良県が中心だった。
このような記録を見れば日本の文物は百済が伝播したことは明らかに見える。

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