【速報】三菱航空機、開発費削減と人員削減。スペースジェット(MRJ)の開発は一旦見合わせ
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三菱重工は、子会社が開発を進める国産初のジェット旅客機「スペースジェット」について、人員の削減を検討していることが分かりました。
三菱重工は5月11日の決算会見で、子会社の三菱航空機が手掛けるスペースジェットの今年度の開発費用を前年度の半分の約600億円にすると説明しています。
予算の縮小を受け、三菱航空機は人員の削減や、開発を進めている90席クラスの初号機の量産機について、製造スケジュールをペースダウンすることなどを検討していることが、関係者への取材で分かりました。
また、主力となる70席クラスの開発は、一旦見合わせるとしています。
スペースジェットは初号機の納入をこれまでに6度にわたり延期しています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/bb95bda22f5e943a0df3c686c9822cc2f4da5db6 モノ売るってレベルじゃねーぞ!
やめちまえよもう(´・ω・`) 受注200機3年待ちとかニュースになってたろ?
キャンセル? むしろこれからこのサイズの需要が出てくるんじゃないのか? >>4
ひたすら謝って接待して許してもらうとか、、
実際こういうので入り込める奴の方が、開発者数人より貴重 MHI本体の奴は工程・進捗管理ぐらいしかやってないんだろな >>12
開発体制
中の人曰く自分らが何やってるのかも分からなくなるほど風通しが悪いらしい >>16
むしろF-3を開発するからMRJ開発メンバーから技術者を召集するんだろ 民間機はアメリカて認証取らなきゃいかんってのか無理筋だよな
もう軍用機に専念しなよ 三菱って家電もクルマもシェア1位取れないよね
でもウチはエアコンは三菱使ってるんだ
値下げが大きいんだよ
銀行だけは規模だけは1位だけど コロナ理由に開発中止できていいじゃん。これで三菱のプライドがキズつく事もないわな。 >>25
三菱電機の霧ヶ峰はいいけど
重工のエアコンは影薄いな ビーバーだっけ 財閥系企業って絶対潰れないって安定志向で
入ってきた良家のボンボンばっかりだから
全然危機感が無いんだと思うよ ボンバルディアの買収決まってるんだし開発は縮小確定だろ
端から買収で良かったんだよ わかってる奴がまとめ役にいなくて新しいもの作れないんだろうな
部品レベルなら多分そこそこのを作れるのだろうけど >>23
MRJまともに作れなかった奴等集めてF3開発ねぇ… 確かに三菱は中途半端だよな
シェア一位って何だ?
鉛筆だけじゃね? 経営層と現場に相当な距離があるんだろうね
トヨタなんか社長が国際C級ライセンス
持ってて開発テストドライバー買って出る位
クルマに精通してる フィアットはイタリアを持っているが
三菱は日本を持っている >>10
俺、どMでドスケベだから営業に採用してほしいw この感じ現場の技術者の問題ではなくプロマネなどの管理職とか経営者がクソっぽいな 三菱と言えばクルーズ船の火事2回は笑ったわw
トップが無能すぎる >>47
僕のスペースジェットも今夜は役立たずでw
このやろー!タハハ
ほんと何やってんすかねー
まあまあ、気長にお願いしますよー
この子、いいでしょ?タハハw
ぱいおつかいでー、さゆさゆですよお タハハw
○さんのスペースジェットでイカせてあげてくださいいよお キャッホーw
イクイクウ〜 おじさまのスペースジェットすっごーーーい!
発射!ってさあw M菱Gは全部は役所並みにクソばっかり
いっかい更地にした方が日本のため >>48
うーむ相変わらずこの国は上が無能、下が優秀
コロナ問題で再認識された >>52
まあシャープとか経営が外資にすげ替えられたら途端に復活したとかよくある話し テクノロジー犯罪
音声送信・・隣の家から悪口を言われているように聞こえる。山の頂上でも聞こえる。
思考送信・・頭の中に直接聞こえる。起床直後や布団の中にいる時に多い。
夢操作・・夢が加害者の意図通りに操作される
心臓がドキッとしたり、興奮したりると、必ず悟られ、それに対するほのめかしの音声送信がある。
富山県南砺市警察・(井波)消防団は家宅侵入、窃盗、器物破損を繰り返す犯罪集団です!! ・・・集団ストーカー 外国人は成果に関係なく長引けば長引くほど高給をもらい続ける。
家族の生活費や子供の学費も会社持ちだしサイコー。
母国の家族や友達を誘いまくってどんどん馴れ合いの場に。
提案が失敗してもその軌道修正に金を踏んだくれる打ち出の小槌。
開発が終わるとお払い箱になるのでとにかく終わらせないように必死。
日本人管理職は自分の立場が危うくなるわけではないので放置。
退職するまで持ち堪えてくれればハッピー。
いざとなったら日本人派遣と下請会社に泣いてもらえばいいだけ。
外国人を切るのはうるさいしあとが面倒だからやりません。
そんな環境でもなんとか頑張ってきたマジメな技術者が気の毒。 部品の製造下請けの話に乗っかった地元の企業大損だな 三菱系のメーカーって国とかが発注する仕事が多いからなのか
一般家庭に流通する家電とか自家用車の出来がいまいちなんだよね
なんかニーズや流行の先取りがヘタというか、センスが残念な印象
ホンダは失敗作も多いけど、先取りするような製品の印象があるな >>10
だな。
懇切丁寧に説明できて頭下げられるやつは特殊能力だと思う。 完成した状態が見えないまま模索してても何も出来上がらないよ >>1
やっとやめれると思ってるんじゃないか?きっかけ待ちだったろ。 撤退の、やんわりした言い方かな。
物造りのセンスがおかしい。バックアップラインとメイン同じ場所に通すとかね。 ずっと期待してたんだけどねぇ・・・まさか撤退はしないよな(´・ω・`) >>23
これは予言だけどF–3もじきに開発中止が決定する 顧客を何年待たせているんだ
もう詐欺と変わらないぞ 納入が遅れに遅れてる航空会社への違約金とかどーなってんだ?
あと、もしホントに量産して航空会社に引き渡すとしたら
向こう20年はメンテナンスの為に会社畳めないぞ
赤字を垂れ流し続けるだけだ 三菱グループって日本式経営の悪い所の代名詞みたいなもんだな。 >>48
MU-2もMU-300もそれで大失敗したからね
機体は傑作機だったのに 下請けに助成金出しまくってたけど、全部つぶれちゃう ホンダが飛行機作る時無理スンナ言われまくってたのに
まさか大成功するとはね
何が違うんだろ ネトウヨ得意の手のひら返し
ネトウヨ飛行機大失敗
こいつらもウェスティングハウス買って失敗した東芝と同じ運命 >>88
無理に決まってんじゃんと思ってました
訳わからんわあの会社 80年代のパソコン、半導体、ジャパンディスプレイ…
なぜ日本の国営事業はすべて失敗するのか? ああ安倍三菱ね
いったい何兆円使ったんだろうね安倍三菱に なんで安倍がやることなすこと全てうまくいかんか、
それは満州事変をやらかし太平洋先祖な発展させ岸信介に殺された多くの多くの人の怨念や 飛行機のプロジェクトをやれと言われた。入社2年目であった。そのときの気持ちを、藤野道格はこう言っている。
「小さなプロジェクトでした。40代の上司がひとり、その他は入社2年ぐらいの若手が6人です。上司はアグレッシブな人で、
これから飛行機の機体を作って実際に売るのだと宣言した。そこで説明されたコンセプトは、飛行機の自動操縦、自動制御、
オールコンポジットの機体開発だとかで、それは当時のアメリカのNASAが手がけているような最先端技術ばかりなんですよ。
僕らにしてみれば、これから泳ぎを覚えるというのに、数年後の目標はオリンピックの水泳だと言われているようなもので、
自分たちの実力と開発コンセプトとテーマが、あまりにも離れすぎていてギャップが大きい。どこまで真面目に考えていいのかさえわからない。
なにしろ飛行機の設計をやれる人がいない。上司は意気軒昂で、こういう飛行機を作ろうとスケッチを描いたりするのですが、
飛行機を勉強してきただけの僕が見ても、それは飛びませんよと思うわけです。飛行機は物理現象で飛んでいるわけですから、それを無視したら飛びませんからね」
自動車メーカーが飛行機を作ろうとした、こうなるという話であろう。ようするにホンダはゼロからホンダジェットの研究開発をスタートしたのであった。 「会社からは、世界最先端の技術を学んでこいと言われました。私は学校で制御を学んでいましたから、
フライトコントロールの最先端技術や理論を学ぶのだと送り出されたのですが、ミシシッピ州へ行ってみたら、
そのようなことを学ぶ場所ではないことがわかりました」と藤野は言っている。
「ラスペット飛行研究所は、手作り飛行機を作っているような研究所でしたね。既存の単発ターボプロップ機の主翼と尾翼を、
コンポジット材(複合材料)で作りなおして、機体を軽量化するという研究をしたわけですが、毎日、部品を作っては、
ヤスリがけして、自分の手で飛行機を組み立てるような作業をしていた。最先端技術や理論なんて、どこにもないのです。
飛行機の機体は、綿密な構造計算の上で設計されるものなのですが、単発の小さな飛行機とはいえ、すごく簡単な計算をするだけでした。
さすがにある日、こういうやり方でいいのですか、とミシシッピ州立大学の教授に問うたわけです。そうしたら教授は、近くにあった椅子を指さして、
こういう椅子を設計するときに綿密な構造計算が必要だと思うのか、と言われました。これにはショックをうけましたね。こういうところに来たのかと、物凄いギャップを感じました」
ただし藤野は、ラスペット飛行研究所での経験は貴重なものだった、と後に気がついている。
「たしかに実際に図面を描いて飛行機を設計し、自分で部品を作り、組み立てる。自分で飛ぶことも出来た。
それまでは航空学科を卒業しているだけで、飛行機にさわったこともなければ、ましてや操縦したこともないわけですよ。
だから実際の経験が出来た。自分の手でボルトをしめたリ、リベットを打ったりする。こういう経験は、本場アメリカの航空機エンジニアですら経験していない。
飛行機の設計は出来るけれど、飛行機を作ったことがない。そういう経験は貴重だと後でわかった。しかしそのときは満足できないわけですね。
もっとハイテクなことを学びたいと思っている。だから昼間は飛行機を手作りして、夜はハイテク理論を勉強していました 1988年になると、本格的な飛行機開発がスタートした。実験機と位置づけられたMH02型の開発計画である。
「普通の飛行機の機体はアルミ製なのです。しかし私たちに与えられたミッションは、オールコンポジットの機体を作れ、ということでした。
コンポジットとは、プラスチックのなかにグラスファイバーみたいな繊維が入っている素材です。樹脂と繊維を編み合わせた構造で、
それを重ねて作るのがオールコンポジットです。アルミ製にくらべると利点は多くあります。軽くなる可能性が大きい。アルミ製より疲労に強い。
また腐食しない。曲線とか曲面がきれいに仕上がる。ただし設計も製造も、きわめて難しい。設計に手間がかかるし、
専用の大掛かりな製造設備を必要としますので、コストがかかる。いい技術陣がいて、いい理論があり、いい実験データが豊富で、
専用製造設備があればオールコンポジットもいいでしょうが、それがなければ成立しない。設計が難しく、製造が難しく、コストがかかる。
オールコンポジットの機体開発は、MH02の開発に着手した時点では、まぎれもない最先端技術でした。現在でも先端技術と言っていいと思います」
藤野は言葉にこそ出さなかったが、オールコンポジットの機体開発は、あまりにも冒険的であったと言いたげだった。
だが、ホンダ上層部の意志は強固であった。いまのホンダの技術水準では到達不可能と思える最先端技術であるからこそ、
チャレンジングな研究開発テーマになるのだという強烈な哲学が本田技術研究所には伝統的にある。そのとき最高の最先端技術に挑戦するからこそ、
技術的体力が身につくのだという考え方だ。
そうしたホンダの技術開発哲学について、藤野はひらたい言葉で、こう言っている。
「飛行機開発を始めたとき、上司から与えられた研究テーマについて、これは出来ませんと答えると、物凄く怒られるわけです。
出来ない理由を説明すると、もっと怒られます。出来ないことはない、と言うわけです。そうやって怒られながら僕は学びましたね。
出来ない、と思ったら、出来る方法を考える。出来ないと答えれば、怒られるけれど、こうすれば出来ますよと言えば、
比較的うけいれてくれる。ならば、やってみろ、ということになる」 1993年に飛行試験を開始した実験機MH02型は、ホンダが初めて自社設計して開発した記念すべき飛行機となった。
しかも実験機ではあったが世界初のオールコンポジット製ビジネスジェットである。ここにきてホンダは、飛行機開発の設計、
機体組み立て、地上テスト、飛行試験までをすべて自分たちで実行し、飛行機をゼロから設計して飛ばすまでの貴重な経験を積んだ。
初飛行のときのことを、藤野道格はこう言っている。
「もちろん綿密に計算して、間違いはない、という確信があるから飛行試験を開始したわけです。間違いは許されないですから、
すべての部品は計算して設計しテストしているし、機体はすべてチェックしている。ただし、自動車同様に飛行機にも特性というものがあります。
MH02の場合は、エンジンが機体の上についている特殊な形をしているので、離陸するときに操縦桿を強い力で引く必要があるという特性があった。
パイロットには、そのことを説明したのですが、そういうことは経験しているから大丈夫という感じで、あんまり心配していなかった。それで無事に離陸しました。
僕はそれを自分の目で見られないのです。設計者たちは、離陸するところが見えない場所で、テレメーターとかデータを見ていなくてはならないので、
あっ飛んだな、とデータを見てわかりました。初飛行をおえたときは、それは嬉しかった。嬉しくて嬉しくてしょうがないというのではなく、
ほっとした、という気持ちが強かったですね。なにしろ初飛行直前の3日間は、毎日2時間ぐらいしか眠る時間がなかったので、疲れているし眠たい。
無事に初飛行をおえたあとは、早く帰って寝たいということだけでしたね」 この実験機MH02型のエンジンは、実はホンダ製ではなかった。PWC社製のターボファン・ジェットエンジンを搭載していた。
ホンダは藤野たちの航空機プロジェクト立ち上げの1986年に、航空機エンジン開発のプロジェクトも立ち上げている
。したがって、おそらくホンダのターボファン・ジェットエンジンの開発が、MH02型の飛行試験開始までに間に合わなかったのだろう。
藤野道格は機密保護の立場から、そのことについて詳しく発言することをしない。
ただしホンダのターボファン・ジェットエンジン開発については、このような雑感を言っている。
「自動車用エンジンとは、まったく別のものですからね。凄い高温で、凄い遠心力で回転するエンジンですから、材料を限界まで使うし、
その使用条件も品質も異なりますから、大変な開発だったと思います。とはいえエンジンは、ホンダはエンジンの会社だというのがあって
、エンジンは自分たちの手の範囲内にあると思っている人が多かったようですね。だから航空機エンジンを作って、
航空機メーカーに売るというほうが比較的実現性が高いと思うわけです。そのほうがビジネスの範囲もうんと狭くなるし、
投資の回収は難しいかもしれないけれど、リスクは少なくなる。そういうことがあって、航空機エンジンの開発は今日まで、
ずっと継続されてきました。僕らのほうは途中で何度も航空機研究を続けることが難しい状況になりましたけれどね」 実験機MH02型の試験飛行が終わった1996年から1年半ぐらいの期間は、藤野道格にとって、いちばん辛い時期であった。
「要素研究は許されたのですが、先が見えないわけですね。これは辛いです。ここからもう一度、航空機研究プロジェクトを巻き返したいとは思っていたのですが、
やっぱり無理かなという考えも頭をもたげてきます。諦めて、ホンダを退職して、他の会社へ行くかという考えも出てきます。その頃に、マラソン選手の話を本で読んだのです。
マラソンをしていて苦しくなったときは、ゴールまで40キロを走るのだと思わないで、とにかく次の電柱まで走ろうと思って走り続ければ、完走できるという話でした。それを読んで、
とりあえず次の電柱まで走ってみるかという気持ちになりました」
と藤野は言っている。そして1年半がすぎた頃、藤野は当時のホンダ社長である川本信彦に呼ばれた。
そのとき藤野道格は、新しい航空機研究のコンセプトを話している。それはとても具体的なビジネスジェット開発アイデアであった。
従来のビジネスジェットより燃費を20、30%向上させて、3、4人が搭乗したときの1人あたりの運航コストが国内線のファーストクラス並であること。
キャビンのスペースがひとクラス上の機体と同様の広さで、対面シートに座った乗客の足がお互いにぶつからないこと。きちんとしたドアがついたトイレを設備し、
乗客人数分のゴルフバッグが無理なく積める荷物室があること。最高速度は400ノット(時速約740キロ)をこえ、ノンストップでニューヨークからマイアミまで飛行できる、
高性能な小型ビジネスジェットであること。購入者の所有欲を満たす魅力的なスタイリングとインテリアであること。 以上の性能をもたせるために、エンジンを主翼上面に搭載するという斬新かつ挑戦的な技術課題を考えていた。従来の小型ビジネスジェットのように胴体後部にエンジンを搭載すると、
胴体後部にエンジン支持構造が必要となるので、キャビンスペースや荷物室スペースを十分な広さにできない。だからエンジンを主翼に搭載することを考えた。
それもジェット旅客機のように主翼の下面に吊り下げるのではなく、主翼上面に搭載する。この方法は、空力や重量配分の問題解決が難しいために、
いままで実現されたことがなかった。そのような未知の技術開発に挑戦して実現すれば、新しい小型ビジネスジェットのスタイルを生み出すことになる。ホンダ好みの、まことに挑戦的な技術コンセプトであった。
この藤野のアイデアを聞いた社長の川本信彦は「このアイデアをまとめて、経営会議へもってこい」と言った。「これは千載一遇のチャンスだ」と藤野は思った。
こうして経営会議に、新しい航空機研究プロジェクトが提案され、そして承認された。藤野が提案したコンセプトを実証するためのプロジェクトである。 1997年、ふたたび藤野道格たちは、航空機製作のプロジェクトに着手することになった。
独自に研究開発を続けていたホンダ製ターボファンジェット・エンジンが実用化の段階へと仕上がり、それを搭載することが決まった。
「主翼上面にエンジンを搭載したホンダジェットの設計には2年間の時間が必要だった」と藤野は言っている。入念な計算、何度も繰り返される
コンピュータ・シュミレーション、そしてテスト、風洞実験と、「絶対に大丈夫だ」と思えるまで時間をかけた。
ここでふたたび自動車メーカーが航空機を作ることの難しさに、藤野は何度も直面する。
「オートバイやクルマなら、厳しい評価ができますが、飛行機だとピンとこないというか、知識も経験もないのですから、ホンダの社内でも話が通じにくいことがありました。
本質的な理解が得られているのかどうか、判断が難しいことすらあった。いちばん異論が出されたのは、主翼上面にエンジンを配置するアイデアでした」
それまでの一般的な航空機設計理論では、主翼上面には何も配置しないというのが常識であった。
しかしホンダジェットでは、キャビンスペースや荷物室スペースを十分な広さにするために、 主翼上面のエンジンを配置する設計である。
たしかに主翼上面にエンジンを配置することは技術的に難しいことであった。空気抵抗が増加し、高速飛行時の空力特性が悪化するからである。
そのような問題を、藤野は技術課題として設定し、主翼まわりの空気の流れと、エンジンまわりの空気の流れを、うまく組み合わせれば、
高速飛行時の空力特性を悪化させない圧力分布が 可能ではないかと考えたのである。この考えにそって、主翼上面の最適位置のエンジンを搭載すれば、
高速飛行時の空力特性を悪化させず、むしろ向上させる可能性があることを、 コンピュータ・シュミレーションを何度も繰り返すことで発見していた。
最終的に、最新鋭のCFD(数値流体掲載シュミレーション)でコンセプトをかため、ボーイング社とNASA(アメリカ航空宇宙局)の遷音速風洞試験で実証したのであった。 こうして藤野は主翼上面にエンジンを配置したホンダジェットを設計するのだが、社内での技術的理解を得ることは困難であった。
「理論で説明し、実験結果を提示しても、なかなか理解してくれなかった」と藤野は言っている。
「きちんとした評価をアメリカの航空学会でもらえれば、きっと安心して理解してくれると私は考えました。またホンダが変な形の飛行機を作ったというネガティブな印象をもたらすと、
ホンダのブランド・イメージを傷つけてしまうかもしれないという懸念もありましたから、学会だけはきちんと攻めて、評価を得ておこうという考えもありました。
ただし、よい評価を得られるかどうかは、ひとつの賭けだなと思っていました」
エンジン主翼上面最適配置について、藤野は技術論文を書き、アメリカの航空学会で発表した。
その技術論文を、アメリカ航空機設計委員会は高く評価した。飛行機設計における重大な発見のひとつである、と論評されたのである。
飛行機設計の専門誌である『AIAAジャーナル・オブ・エアクラフト』誌に論文が掲載されるほどであった。
エンジン主翼上面最適配置という最新飛行機設計技術は、社内はもちろんアメリカの航空学会でも理解と支持を得られたのである 2年がかりの入念なホンダジェット設計がおわると、いよいよ実際に試作機の製作を始めた。1999年のことである。
設計図に描かれたホンダジェットは、実験機MH02型よりひとまわり小型であったが、キャビンスペースは広くなった。
エンジン主翼上面最適配置を採用したから可能になったことである。
その胴体は、すでに10年間の研究が積み重ねられているコンポジット構造であった。胴体は、ノーズから最後尾すべてまで、徹底して空気抵抗が低減されていた。
空気抵抗を減らせば、
飛行性能が向上し、さらに燃費向上まで可能になるのは、自動車設計と同じである。ホンダが作る小型ビジネスジェットであれば、高性能で燃費がいいのは当然という考え方だ。
エンジンを搭載する主翼はアルミ製であった。実験機MH02型は胴体と主翼すべてオールコンポジット構造であったが、商品化をめざすホンダジェットは、
より現実的な選択として主翼はアルミ製となった。
こうした現実的な技術選択が出来るようになったのは、藤野道格が航空機設計者として成長したからだろう。
必要な技術を必要に応じて使いこなすという設計手法はベテランのものだ。藤野はこう言っている。
「商品化するという目標があり、それはビジネスですから、コストを考える必要があります。コストに糸目をつけないで性能だけを追求するというのなら
オールコンポジット構造がいいと思います。 しかしコンポジットの製造設備投資は大きいですから、ビジネスとして考えてコストパフォーマンスを判断する必要があります。
胴体だけをコンポジット構造にしたのは、 胴体はコンポジットの良さを最大限に活かせるからですね。そうではないところ、たとえば主翼はアルミを使うべきだという、
ベストのコンビネーションでやろうと判断をした。
あまりにコンポジットにこだわると、エンジニアの視野を狭くしてしまい、何でもコンポジットで作ろうとして、簡単なLブラケットまでコンポジットだと考えてしまう。
Lブラケットなどはアルミで作れば30ドルの部品なのに、コンポジットでは100ドルになってしまう。飛行機の全体をまとめるときには、どこがコンポジットか、
どこがアルミかを、きちんと見極めなければならない。 そういう観点で全体を考えると、やはり主翼をアルミにするのが、最良のコストパフォーマンスを生み出すと判断した」 ホンダジェット試作機の製造に取り組んでいる間も、ホンダ社内では航空機プロジェクトの存在を問いなおす議論が続いていた。
2001年になると、商品化しないという声が大きくなってきた。
「2001年ぐらいから、航空機プロジェクトは、もうやめるという話が出てきた。ところが福井(威夫/第5代社長)さんが、まだ研究所の社長だったと思いますが、
とにかく飛ばすところまでは絶対にやるべきだ、 と言っていると伝わってきた。この福井さんの意志は、福井さんが2003年6月にホンダの社長になってから、
ふたたび表明してくれました。あのとき福井さんが言ってくれなかったら、はたしてどうなっていただろうかと考えることがあります。
私の人生というか、ホンダの航空機プロジェクトは、つねに綱渡りですよ。ひとつ間違っていたら、ホンダジェットは生まれていない。
本当に危なくなったときに、どこからか助け舟が出てくる。あるときは、その人が川本(信彦/第4代社長)であり、福井さんだった。
どこかで私たちの仕事を見ていてくれたのだと思います。
いまはホンダって、こういう会社なのだろうと思いますが、プロジェクトが危機にひんしたときは、そんなことは考えられない。
これでプロジェクトが中止されたら、ホンダを退職して、他の仕事をやろうと何度も考えましたからね」 こうした紆余曲折のなかで、ホンダジェットの試作機作りが続けられていた。細心の作業で組み立てを完了すると、入念な強度試験がおこなわれた。
次の段階は地上走行試験と初飛行であった。
そして2003年11月に、地上走行試験、航空機業界の言葉ではタキシー試験を開始できた。そのときの感動を、藤野はレポートにこう書いている。
「格納庫から太陽の下にあらわれたホンダジェットのプロトタイプは、既存機と比較して格段の新しさであった。地上ステアリング走行試験で、
ホンダジェットが8の字にランプを自走する姿は、あたかもフィギュアスケートの選手がリンクの上でのびのびと滑るかのような美しさがあり、
この瞬間は長い開発過程のなかでも格別な感慨を感じた」
1986年に航空機プロジェクトを開始して以来17年がすぎていた。その17年間を全力で走り抜けてきた者のみに許される感動の瞬間であった。
ホンダジェット試作機の初飛行は2003年12月3日に成功している。タキシー試験の直後であった。このときの藤野の感想は、
エンジンをふくめてオールホンダ製の航空機が初めて飛んだにもかかわらず、タキシー試験のときほど心が躍動していない。疲れはてていたからである。
「初飛行前は凄く忙しくて、とても疲れていました。だから、やっと初飛行に成功してホッとしたという気持ちが半分。あとの半分は、これですべて終わりになるのかという
複雑な気持ちがしていた。研究所の上司は、初飛行まではやると言っていたから、これで終わりになるかもしれないわけで、希望をもってやったというより、
自分で自分にケジメをつけるためにやっていたから、嬉しくて嬉しくてという感じではなかったですね。疲れきっていたから、飛んだのは嬉しいけれど、
これで終わりだという気持ちのほうが大きく感じたのだと思います」 初飛行をおえた藤野は、3週間の長期休暇をとってバハマへ行った。バハマのリゾートホテルのレストランで、ひとりのアメリカ人と知り合った。
自分のビジネスジェットでバハマへ家族連れで遊びに来たという。ホンダジェットを知っているかと質問すると、よく知っていると答えた。
「知っている人がいるのだと思って、嬉しかったですね。するとその人は、あんなにカッコいい飛行機はいままでなかったから、ぜひ買いたいと思っている、
と言ったのです。驚いたというか、こういうふうに思ってくれる人がいるのだという気持ちがしました。まったく知らない人から、そう言われて、少し元気が出て、
3週間休んでいたから体力が回復してきて、もうちょっとやってみるかという気になった」
と藤野は言っている。休暇をおえると、事業化をめざして飛行試験に取り組んだ。
ホンダジェットには、開発の目標とした性能や商品力があることを確認したが、社内では相変わらず事業化への声が盛り上がらない。そればかりか、
もしホンダジェットを市販して、それが墜落でもしたら、ホンダの4輪商品のセールスに大きなダメージを与えるだろうという真摯な意見もあり、そう言われれば藤野は黙るしかない。
「ホンダは飛行機が好きな人は多いから、みんな飛行機をやりたいという気持ちがあると思います。しかし経営者であれば、自分はやりたいけれど、
経営責任者としての判断はまた別ですからね。本当にホンダジェットが売れるのか、という心配があるでしょう。自動車メーカーが作った飛行機を、
買ってくれる人がいるのかという不安です。僕はハバナでの経験があったし、ホンダジェットは商品性が高いから売れると言っていたのですが、
そこがなかなか通じなかった。事業化できなければ、本当にすべてが終わるのだと思った」
そう考えた藤野道格は、ひとつの秘策を用意した。最後の賭けに打って出た。 >>35
スケジュール遅れまくって完成したときには既に時代遅れになってる予感しかしねえw >>37
鉛筆だけは三菱グループとは無関係の同姓同名会社 >>18
まともに工程管理できる人間て貴重だよ
業種問わず欲しがられる >>10
入り込め無いだろう、顧客大損だもの、
それでも繋ぎ留めれれば有能だが、そういう奴はこういう仕事したくないだろうな。 今の三菱が1から航空機を開発するなんて無理だったんだよ
ボンバルディアの改良版とかならいけるんじゃない?機体軽くして航続距離延ばすくらいなら しょうがないからホンダジェットをだんだん大きくして100人乗れるようにしようぜ。
戦闘機用の国産新エンジンに替えてエンジン4つで50人乗り、8つで100人乗り、翼も胴体もだんだん伸ばしていけばすぐできるよ。 こうのとり 9号機 キャプチャ
ライブ中継 11:50分より
ISSドッキング
https://youtu.be/17k9M1Vio6g 三菱は防衛省がご飯食べさせてくれるっぽいからな
船とか航空機が駄目になっても平気なんだろ 開発中止か。
いくらドブに捨てる事になるんだ。
納入出来なかった事による違約金も膨大だろ。 >>88
ホンダの人は初めから航空機開発やりたくてそうした知識も大学で
勉強してゼロから始めた。
一方三菱の航空機開発の経営人は所詮は定年までの腰掛けって
認識でしかないからだろ。
失敗したからと言って失うものなんてほとんどないだろ。 伊丹空港と高知竜馬空港の往復にボンバルディア機を利用したけど、実に快適だった。
もうこれらの信頼性を上げて売った方がいいんじゃね? こうのとり9号機キャプチャは
今夜21:15分頃だった ボンバル買収はタイミング良すぎるくらい穴埋めになるなw 株かいどきかもな
恐らく完成てニュー出してくるで
インサイダーやなw >>84
じゃあもうジェットの承認取る必要ないんだな ボンバルディアから購入したCRJの技術を応用した新型CRJで十分だろ
ノウハウもあるんだし スペースジェットは諦メロン これが、昔は戦闘機を作っていた会社の今の姿なのか。 開発初期に国費から莫大な補助金をもらったのに
作れなかったから「やーめた」じゃ済まされないと思う
こんな輩たちに心神はF-3心神は作れないかもしれない 無能アンド無能アンド無能アンド無能
船も作れない飛行機もだめ何なんだよこの会社 もはや開発段階ではないと思うから
実際には直ちに影響はないよな はぁ?世界的に旅行しない時代が来るんだから、
こう言う小型機こそ売れんだろ。787や380こそ要らんわ。
馬鹿なのか経営陣は。 ブーブー言ってるけど、もう飛んでるからな。
ここで止めて高度な経営判断とやらで中国に全部売ってしまう
ことの方がよっぽど問題だろ。 >>149
何度も三菱航空機の社長は引責辞任してるけどな 地元の中日新聞だと撤退も視野にになってる
インパール作戦並みに無謀だったんじゃ? ボンバルディアのに三菱マークつけてリリース、それで終わりやろ。最初のは、絵に描いた餅 もう飛行士兼やってるのに、あとどうするんだろうねぇ
自衛隊の輸送機にでも転用しましょうかw コロナのどさくさで逃げ始めたな
アンチの心ない誹謗中傷の通りになって草 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています