80年前に消えた東京五輪は「呪われすぎたオリンピック」だった

 2020年東京オリンピック・パラリンピックの延期が決まった。
中止ではなく、1年後には開催されるというが、思えばこのオリンピックはスタートからトラブル続きだった。国立競技場の設計変更、エンブレム“盗作”騒ぎ、招致活動での買収疑惑と日本オリンピック委員会会長退任、マラソン・競歩の会場変更……。
麻生太郎・副総理兼財務相が言った通り“呪われたオリンピック”といえるのかも。

(中略)

 1936年8月1日の新聞各紙朝刊は4年後の1940年の夏季オリンピック(当時は「オリムピック」と表記した)が東京で開催されることが、ベルリンでの国際オリンピック委員会(IOC)総会で決まったことを報じた。東京朝日の別の見出し

(中略)

正式決定にこぎつけるも険しい道のりに
 1935年1月、副島は譲歩を求めるため、ムソリーニ首相に面会を求めた。そのとき副島はインフルエンザにかかっており、待っている間に病状が悪化して卒倒。一時は重体に陥った。そんな状態での直談判がムソリーニの心を動かしたのか、回復後の2月初めに面会した際、
ローマの辞退に言及した。ノルウェーのオスロで開かれた1935年IOC総会では決定延期になったものの、ドイツのヒトラー総統の後押しもあって、ベルリンオリンピックに合わせて開かれたIOC総会で正式決定にこぎつけた。
1936年8月2日付読売夕刊は「オリムピックが来る! 六百万市民の歓呼 街に溢る祝賀気分」の見出しで国民の歓迎ぶりを報じた。

 しかし、そこからは、永田らが考えていたよりはるかに険しい道のりだった。大きな難関だけでも(1)大会の理念・構想(2)国内関係者の意思の統一(3)軍部の関与(4)経費の手当て(5)メーンスタジアムの選定――などが挙げられる。どれをとっても極めて困難な問題だった。


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https://bunshun.jp/articles/-/36995