俺のご先祖様って、徳川家康の槍指南番(超上級武士)だったんだけど で、お前らは?(笑)
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まさか水呑み百姓の子孫は、ν速にいないよね?(笑) 母方の先祖は昭和初期浅草で右から仕入れた仏像を左に売る仏像ブローカーだったらしい
かなり如何わしい商売だがそれなり儲けて吉原や向島あたりで散財してたとか 1のご先祖様もこんな事になるなんて考えなかったろうな こんなインターネットの片隅で匿名でイキることしかできないのか >>742
2022年には今の生産緑地を半分売ってマンションにしちゃうよ。御先祖様から受け継いできた畑、何とか守りたかったけど宅地と同じ税金取られる様になるとマジで生活が苦しくなる。残念だけど仕方ない。
残りの農地は俺の代、子や孫の代とずっと守っていくつもり。狸や小鳥のオアシスになってる雑木林もね。 >>754
やっぱ先祖からの土地を維持するのは大変だよね
うちは親父が死んで農家は終了 300年前だと1000人くらい祖先いるだろうから、百姓から殿まで選り取り見取りだろ うちは、木を植えて原野で登記しなおした。
だから、固定資産税は安い。 先祖 ?(´・ω・`)知らんがな
俺の代で 全部途絶えるわ
代々伝わる虫歯菌も 弱いお腹の腸内環境も
運動神経ゼロも ハゲ遺伝子も
運の無さも ざまーだわ >>1
実話怪談 西浦和也 迎賓館
https://www.youtube.com/watch?v=KfBmT63n-Lc
物語の舞台は紀尾井町の名家の邸宅。名家は怪談もすごいのね(´・ω・`) 親父たちは自分達の戒めからか、大分年とる迄知らなかったけれど
親父をずーと辿ると、清和天皇まで行ってるのみたら、ちょっぴりムネ熱だった >>758
元々は九州あたり通って関西関東を開拓した渡来人の末裔が殆どだけどね武家公家は >>1
徳川幕府は佐賀人と鹿児島人に惨めに滅ぼされたじゃん? だいたい、山陰とか下関北キューあたりから北上したのがサムライ公家のルーツ。
関西関東開発団のようなモノだ。
屯田兵に似てたかもな >>1
多分祖先は農民だなぁ
親父は高校出てないが地頭が良いタイプ みんな結構立派な先祖なんで、へぇ〜て思うけど、リアルで先祖の話しなくても「どこか品がある」とか「育ち良さそう」とか言われた事あるんじゃないの
そういう家は子孫も姿勢の良い人が多い 志賀太郎の祖先は2000年前に金印の出てた博多の志賀島に住んでた。志賀島は只者では無い >>764
先祖が悪さばっかしてると忘れた頃に呪いが来る
うちの家系も3代おきに不幸がある
前回は曾祖父さんの時に12人いた兄弟10人が怪死
さぁ俺には何が来るんだろう今のところ小さい不幸はあるが・・・ >>762
それはない!倭国の朝鮮半島での弟一回の軍事活動は367年であり、この海外派兵の367年までに九州勢力が作った大和朝廷による日本統一がなされたと考えられる 俺の祖先は平家の落人。
平家にあらずんば人に非ずって言われてたの
知ってる? >>1
5ちゃんにクソスレ建てている今のお前の姿
御先祖様に申し訳ないと思わないのか 汚物は消毒だー!みたいなやつ
ケンシロウいなくて無双していた 母の母方 武家
母の父方 農家
父の父方 知らん
父の母方 知らん
以上 >>1
実はたいていの人は遡ると究極的にはどっかの天皇まで行かないか?
平安の時期にかなり臣籍降下してるし
あの時期に関東を開拓しに来た おれわ、紀伊国屋文左衛門の妾の子 江戸時代ばっちゃが、花魁やってたわ >>1
それが源や平だけど
そのあたりもかなり分家してるやん
源や平は祖先が天皇やし 親から子に受け継がれる遺伝子
子供 50%
孫 25%
ひ孫 12.5%
4代目 6.25%
5代目 3.125%
6代目 1.56%
7代目 0.78%
だから何百年も昔の祖先なんかどうでもいいと思うけどね
家柄が何百年も受け継がれてる家系の話だったら分かるけど >>763
義光流かな。
島津さんには嫁いでる人は居るみたい。 >>12
天領には代官以下の役人しかおらんがそこの姫様って何者? >>772
家は長男が、全部受け持ってるみたいだな
大病、事故、怪我多いよ長男だけ
でも防御もすごいのか、死なねーなみんなw九死に的なことが多い。 >>46
弥生時代の北部九州の墳墓からは、鏡・剣・玉が多数出土し、しかもこの三点がセットになっている場合も多い。これは天皇家の三種の神器と文化的に直結する。
これに対して弥生時代の畿内の銅鐸文化は、次の古墳文化にまったく接続していない。もし邪馬台国が弥生時代に、畿内で自然発生的に、樹立され、これが大和朝廷の中にその痕跡すらないのであろうか。
大和朝廷の歴史書である記紀の神話には鏡の事は何回も出てくるが、銅鐸については何も語るところがない。
分かりやすく言うと畿内の先住民は
九州人に滅ぼされた >>789
銅鐸やってた人は鈴木の祖先で、后は出雲の系統と記紀では記述あるので滅ぼされたとは限らん。
それに神武が付いた時に先に来てたニギハヤヒは同じ天孫族だし、ニギハヤヒは鈴木物部の祖先らしいよ >>785
日光東照宮は栃木なのに、何でオメェは神奈川なんだよw 徳川なんてどこのルーツか分からんやん、豊臣秀吉と同じ農民かもしれん >>712
おぞましい鬼畜外道チョーセンカルトですね
身の毛もヨダチます 【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないですなw
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいが
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる >>788
いいな・・・死なない程度の呪い
いつかけられたのかいつまで続くのか
わかってるのは3代おきっっ以外わかんねぇwww >>793
今となってはというか当時から朝廷・公家からは「源氏なわけない」とは言われてたらしいよ
最初は藤原姓も自称してた
元は賀茂姓ってのが有力だが、これもわからん
家光あたりの時代に大々的に自家文書の改ざんをして源姓ということで統一した
本姓なんてみんな結構恣意的
守護大名から戦国大名になったところ(武田とか今川とか朝倉とか六角とか)は本姓もある程度信用できるだろうけど
下剋上で戦国大名になったところはほとんどただの自称だろ
信長も最初は藤原姓を称して、途中から平姓を自称するようになった
あとは家臣に名門の家名だけ継がせたときに本姓が変わったりする
(信長が信雄に継がせた北畠家とか) 高野山➡根来忍者➡僧兵➡大阪造幣局➡公安職
なんか落ち着かないw 先祖スゴイ→俺スゴイの嫌儲イズム
抱き合わせ商法やってるお前単体の価値は… >>12
大名が支配してない幕府直轄地の姫様ってこれもうわかんねえな
代官の娘は姫様とは言わんぞ 大内義隆だと聞いたことがあるけど本人も子供も非業の最期を遂げて養子で入った大友宗麟の弟も討ち死にして血統が絶えている筈だから信憑性に欠ける エリート官僚の息子が最近ひどい目に遭ったらしいよ! 父方高祖父 貴族院多額納税勅任議員
父方曽祖父 東大医 貴族院議員
父方祖父 マーチ法 裁判官→公証人
父方祖父の兄 早慶 市長 県公安委員長
父方祖母 旧制東京女子専門学校
父方祖母の弟 東大理 私立大学創設者
父 マーチ理 市役所
父の弟 早慶法 法律事務所
父の妹 マーチ理 保健所
父の妹の夫 旧帝理 海運会社社長
父の従兄弟 日東駒専理→アメリカの大学院 大手総合電気メーカーイギリス勤務
母方祖父 高卒 県庁
母方祖母 中卒 専業主婦
母 Cラン私立文 東証一部証券会社
母の兄 日東駒専 建築零細社長
従兄弟 早慶 メガバン
従兄弟 マーチ TV局
自分 偏差値38高卒〔大学中退〕 無職 >>813
武家華族?公家華族?
今はあれだけど先祖凄いな >>800
徳川は戦国初期に三河守(源氏でないとなれない)になるために
躍起になって本姓を源氏する朝廷工作してたそうだな
なんとか本姓源氏とすることが認められて三河守になったそうな
(なぜか認められたのは本家の当主だけという) しかし戦国時代ともなると源氏子孫と平家子孫がもう婚姻しまくってるだろ >>770
日本だとその程度だけど、ヨーロッパだと
貴族出身ってだけでだいぶ違うんだよな(貴族制度がなくなった国でも)
ドイツなんてとっくに貴族制度がなくなり公的な貴族などいないけど
貴族の家柄(本家のみ)だと社交界にデビューがある
テレビで70uの公団住宅住まい、年収ドイツ平均程度の没落ドイツ貴族の娘でも
社交界にデビューしてキラキラな典型的欧州貴族の邸宅に住んでる貴公子と
ダンスのパートナーになってたのやってたわ
貴族娘はダンスパートナーの貴公子の自宅に招かれ、キラキラな豪華な応接間に
案内されて目を輝かせて大喜び
両親は娘の社交界デビューの為に貯めてた日本円で200万円くらいを吐き出しデビューの準備を行ってた 父方
母方
両方のお墓に行って
家紋を調べて自分のルーツを知る。
そしたら御先祖様が頑張って子孫に財を残してくれた事がやっとわかって涙が出ます。 三河で源氏など珍しくも何ともないから
うじゃうじゃいた
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職 父方先祖は代々有名大社の権宮司です、大正時代本家に皇族がお泊りになられたことがあります。
ちなみに父方祖母は大正生まれです。 お百姓さんだけど苗字も名乗ってたし表裏の家紋もある
我が一族もしかしたら結構いいとこの出なのかも 子供の時から凄い貧乏だったけど、なぜか会う人から時々「いい所の出でしょ」「やんごとなき家の出身みたい」て言われる
父方が播磨→鎌倉→東北に行った赤松氏らしい 家康は三河守には拘ったが、源氏に拘ったわけではない
何故なら遺伝子的には、完全に貴種だから
■今川記(1553年成立)
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
家康とやらに源義家、源義国(源姓足利氏・新田氏の祖)、足利義兼(初代源姓足利氏)、一色公深(初代一色氏)、今川国氏(初代今川氏)、吉良長氏(初代吉良氏)、源為朝、安達盛長、足助重範、楠木正成の遺伝子イン 家康にしてみりゃ、世良田頼氏が三河守になっているから納得がいかんが、藤原にしろと言われたので藤原にしたまでの話
三河守について
1184年06月:源範頼(三河守)
1193年08年:吉田資経(三河守)、吉田経房(初代関東申次)の孫、室に藤原範季の娘
1200年02年:藤原親輔(三河守)、藤原顕季の息、姉妹に九条兼実室
1207年01月:忠輔(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1212年12月:実茂(姓不詳)(三河守)、三河の藤姓熱田大宮司家か?
1225年01月:藤原為綱(三河守)
1228年12月:藤原経季(三河守)
1229年10月:藤原範房(三河守)、藤原範季の孫、叔母は吉田資経(三河守)室、姉妹に四条隆親室、忠成王(母親は三河の藤姓熱田大宮司、藤原清季の娘)妃
1235年01年:藤原隆朝(三河守)、藤原隆季(四条家の祖)の曾孫、息が四条房名(三河守)に養子入り
1238年10年:卜部兼直(三河守)、兄弟の孫に吉田兼好
1200年12月:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息
1241年03月:清原教隆(三河守)、九条頼嗣の侍講
1242年03年:藤原定親(三河守)
1244年08年:世良田頼氏(三河守)、室は足利義氏(三河守護)の娘)
1248年01年:四条房名(三河守)、四条隆親(三河国知行国主)の息 >>829
まず、上級武士なんて単語はねえ!!
>1は、
流言飛語の輩、身柄を拘束、奉行所に引っ立てい! >>1
10代遡れば先祖は約1000人、侍もいれば乞食や外国人もおるやろ。
それぐらいの想像力ないの?2の10乗やで、計算できる? ずっとずっとずっと降ると、猿
火を理解するのはかなり後 >>833
あんたずいぶん詳しそうだけど
そのあたりの出典、文献がどの程度信用できるのかって話だと思うんだが
原典が何次資料なのかとか、写しの正確性とか >>790
銅鐸文化は2〜3世紀の弥生時代後期に近畿・中部地方でもっとも盛大となり・しかも突然消滅する。銅鐸は祭器といわれているが、これが突然消滅した理由は外部勢力による征服と考えられ、この外部勢力とは、神武東征に象徴される九州勢力であろう。
また銅鐸が宗教的祭祀に使用されたと考えられるのに、記紀などの大和朝廷側の古伝承には、その痕跡をまったくとどめていない。
713年、大和の長岡野で銅鐸が発見されたが、続日本紀はその制、つねに異なると書いている、また821年日本紀略、860年三代実録にもまた銅鐸が出土したが、インドの阿育王の塔鐸だと言って、昔の大事な祭器であることが忘れられていた。
このことは、銅鐸をもつ大和の先住民が九州からきた天皇家とその一党達によって滅ぼされた事を雄弁に物語っている。
奈良朝以降天皇家は1100年間も近くの伊勢神宮に参拝すらしていないのである。これに対して、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮へ勅使が必ず使わされた。
分かりやすく言うと畿内と中部地方の先住民は弥生時代に九州人に滅ぼされた >>36
まだこれが誰だかわからない歴史音痴いるかな?
お前らの大好きな在日だよ 江戸時代は悪徳庄屋でした(´・ω・`)
親父が家継いだ頃は、元小作人の人(かなり高齢のお爺さん)が奉仕で
古里にあるうちの墓掃除やってくれてたらしい。。。
事情知らなかったから、最初驚いたって云ってた 変わったレア苗字なのでその血筋であることは確かっぽい
が
あんまりネタになんないし、そこに誇りを持つ感覚もゼロすぎる
大昔のご先祖がエラそーな立場だったっぽいから、なんだよ
考えてみ
事務次官の子孫って、なにか尊敬できるか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています