北畠顕家、楠木正成、新田義貞を抱えていたのに敗北した後醍醐帝って無能すぎるだろ…
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“最古の日の丸”の有力候補、奈良県五條市西吉野町賀名生(あのう)の堀家に伝わる旗の年代測定が行われ、1463〜1528年か1553〜1634年に作られた絹製であることが分かった。
NPO法人大和社中が16日発表した。後醍醐天皇(在位1318〜39年)から下賜されたとの伝承があるが、100年以上後の室町期か江戸期の旗と判明。旗は新たな謎に包まれた。【大川泰弘】
調査は、染織史家の吉岡幸雄さん、京都大の化学研究所と総合博物館などが、大型放射光施設スプリングエイト(兵庫県)も利用して行った。
年代は放射性炭素の計測で割り出した。生地のたんぱく質の分析で絹であることを確認。含有元素の解析により赤い染料は朱だと分かった。
旗は縦に掲げる形式。縦95センチ、横75センチ。さおに固定するために鹿皮を紫に染めたものがある。糸の品質も良く、吉岡さんは「相当に身分の高い人から贈られたもの」と指摘した。
吉野に南朝を開いた後醍醐天皇は、賀名生の有力郷士、堀家に仮皇居を構えた。日の丸は、この時に下賜されたと伝わる。堀家から委託された五條市が「賀名生の里・歴史民俗資料館」で保管、展示している。
堀家二十九代当主、堀丈太さんは「後醍醐天皇下賜の伝承は崩れたが、誰が作り、どんな経緯でうちに来たのか、一歴史ファンとして興味がある。新たな謎が生まれた」と話した。
“最古”の有力候補に山梨県甲州市の雲峰寺に伝わる日の丸がある。伝承では、源頼義が1056年、奥州征伐の際に後冷泉天皇から下賜され、甲斐武田家に伝わったとされる。年代測定はしていないという。
https://mainichi.jp/articles/20190817/k00/00m/040/044000c >>171
実際そう書いてあるんだからさ
まずは自分の想像力の貧困さを疑えよ
むしろ荷駄隊なんて悠長に引っ張ってる訳がないだろ >>35
この時代、みんな性格がクソなのはしょうがない。
少なくとも動員兵力のこともあって、南朝での主要な戦闘では新田がエースなのは事実。
鎌倉幕府軍の殲滅は水際だった勝利と言えるし、足利尊氏との鎌倉攻防戦はそもそも公家社会の軍団を率いていた以上、武士の軍団を率いている足利一族とは戦闘力が違うのはやむを得ない部分がある。
それでも、どうしても正当化が無理なのは、播磨。
でも勾当内侍はいい女だったらしいから、しょうがないね。 >>177
想像力がないのはお前だろ?
現実にそんなことで進軍が可能かどうか考えてみればわかる、 >>15
無理やり女を主人公にしようとするから詰まらんだけだよ 三笠宮さまが、「うちが天皇をやっているのは(北朝を擁立した)足利のお陰」
って言ってたらしいから
足利尊氏は逆賊どころか今の皇室の恩人だ >>165
源為朝が先祖だと信じられていて、一門扱いも無いだろ
ダタの同じ源氏の扱い
尊氏の頭の中をこうだ
為朝は我が先祖(難太平記、梅松論)
源義家→為義→為朝→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→頼氏→家時→貞氏→尊氏 >>181
三河寄りなのは、嫁のせいだ
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
崇仁親王妃百合子
・旧名、高木百合子
・高木家は河内国丹南藩1万石の大名
・母・邦子は入江為守子爵の娘
高木氏発祥の地
http://kikakubito.cms.am/modules/gnavi/index.php?lid=60
高木氏は安城市高木町の出身で、三河一向一揆で家康に味方し戦功がありました。天正18(1590)年家康の関東移封の際、相模国に5千石の領地をもらい、
その後加増を経て河内国丹南1万1千石の大名となりました。
三笠宮崇仁王に嫁がれ、ヒゲの殿下・三笠宮寛仁親王の母上である百合子妃はその子孫です。
三河高木氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_takagi.html
六本木も青山の地名も丹南藩主高木氏(三河県安城市)に由来
http://www.city.matsubara.osaka.jp/sp/index.cfm/10,64,51,263,html
>六本木の地名のおこりは、江戸時代に高木・上杉・朽木・青木・片桐・一柳という木にちなんだ名の6大名の中屋敷があったからだと伝わっています。
>六本木に西接する港区南青山はもともと、赤坂区青山高樹町とよばれていました。
>いまも、西麻布の首都高速道路3号線出入口は高樹町の名で親しまれており、このあたりに高木氏の丹南藩1万石の別邸である下屋敷がありました。 ◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城 >>185
続き
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆 正成以外、互いに功名を上げたり自身の考えに固執することに必死で協力体制がほぼ無かったもんなぁ
正成は出自がアレなので軽んじらてれたし >>182
後醍醐帝 帰還の立役者である功臣なのにね
でも、そのせいで大乱が発生したとも… 楠木正成の叔母さんは足助重範の生母
鎌倉期、幕府で昇殿出来る資格があったのは、将軍と足助氏だけ
出自云々言う奴は素人 足助重範の生母は楠木正成の叔母さんなら、足利重範の嫁は楠木正成の娘
時代を下り、世に出たのが徳川家康だ
ものを知らん奴が多すぎる
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 >>137
新田は、足利の分家でなく同等の家柄に近かったが、失脚した先祖がいたうえにそのときに妻の実家の足利家の援助でなんとかおとりつぶしを免れたので、かなり家来に近い立場にあった
義貞の鎌倉進撃も足利別働隊に近い役割だった
義貞は、尊氏に対抗できるほどの影響力はもともとない >>148
北条が別に足利恐れてなんぞないだろ
宗家の源氏すらばしばし粛清されたのに足利だけ恐れるかよ
むしろ北条とズブズブだったから生き残ったに決まってるだろうが >>193
三河と北関東で、どう連携取るんだ
新田など、義家流の武田あたりと同じ扱いだ
足利尊氏と徳川家康の生誕地は直線距離で数キロしか離れていない
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。 >>195
俺は物を知らん田舎者だ、まで読んだ
三河の源頼朝が構築した三河システム(三河縁者の武士が武家社会を牛耳るシステム)の継承者が足利氏だ
コレを眺めて、そうなんだと理解出来ない奴は田舎猿
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系 >>194
足利氏は認知されただけの子で実は源氏の血かどうか怪しいって説がなんか好き
あの時代の武士らしくて >>195
続き
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) ID:JpBJH0y30
コイツに歴史スレが見つかったら終了です >>198
三河の田舎者が暴れているのか
新田義貞の父親は、足利から偏諱すら受けているし、尊氏の指示もなく千寿丸大将に担ぐかよ
義貞自体がもともと足利軍団の一員だろうがアホ >>205
当事者でもない田舎猿が、何が分かんの?w
中の人間でもない猿の分際で
俺は当事者、分かるか?
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」 足利から偏諱とか、家来でもない武田も貰ってるつーの
中の人でもない部外者って、やーね 詳しく書いてはいるけど、出典が太平記なのがまた・・・ >>208
詳しく知りたいのか
例えば矢作宿の主だった高氏はこうだ
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→滝口惟忠→大平惟行(三河国滝山寺)
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→義定(御家人、近江国辺曾村)
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→南頼基→惟宗→宗継(備中・三河守護、侍所頭人、室は高師兼の妹)→※宗久(遠江守、高師兼猶子)
【師行流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師行→
師秋(土佐守、家時置文保管者)→師有(関東執事)
師秋(土佐守、家時置文保管者)→三郎(三河国滝山寺)
師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
女(高師直室) >>208
続き
【師氏流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師氏(三河国菅生郷・比志賀郷)→
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→※師世(幕府執事)→いち(三河国総持寺住持)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師秀(尾張守)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→明阿(高師冬妻、三河国総持寺開基)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師武(国司師武)?
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師夏
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師詮(丹後・但馬守護)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→女(渋川直頼(姉妹に足利義詮室)室)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師永(秋里師永)? >>208
続き
師重(三河国菅生郷)→師茂→重茂(駿河守・大和権守、武蔵守護、関東執事)
師重(三河国菅生郷)→師久(豊前守)→※師景
師重(三河国菅生郷)→貞円(三河国滝山寺)
師重(三河国菅生郷)→女(高師春室)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師春→※師兼(三河守護、高師直猶子)→※宗久(高師兼猶子)
師春→女(南宗継妻)
師信→※師幸(備前守)
女(稲荷女房、三河国比志賀郷)
※は武庫川で殺害された8人(師直武蔵守入道・師泰越後守入道・師兼高刑部・師夏武蔵五郎・師世越後大夫将監・高備前(師幸)・豊前五郎(師景)・高南遠江兵庫助(宗久)『園太暦』) >>212
お前は反天皇か、もしくは物を知らん田舎者か?
三河の山=皇室が所有した由緒正しい、最大の荘園
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないですな
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいがw
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる 北朝、南朝に別れたおかげで元寇じゃできなかった土地とりあいができて良かったんじゃないか そして鎌倉期の三河国主は持明院統
三河守護の足利氏は持明院統の下司でもあったわけだ
三河で大覚寺統と持明院統の股割き状態にあった尊氏の苦悩による動向は、部外者である田舎者には分裂症にしかみえないのである
恥ずかしいね、部外者はw
三河国分国主、知行国主
1191年07年:九条兼実(知行国主)、嫡男の嫁は一条全子(坊門姫の娘)
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守) 、孫が水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)、後鳥羽院の命で養子入り後に水無瀬殿を譲られる)娘
1200年03月:七条院(分国主) 、姪は坊門信子(源実朝室)
1227年11月:七条院(分国主)、再任
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の玄孫、すぐに四条隆親と交代
1240年12月:四条隆親(知行国主)、再任
1254年04月:平敦朝
1288年02月:西園寺実兼(知行国主)、関東申次
1301年02月:持明院統(伏見院)(分国主)
1303年04年:持明院統(伏見院)(分国主)
1321年06年:日野俊光(知行国主)、辞退
1321年06年:西園寺実衛(知行国主)、関東申次
1324年01月:持明院統(花園院)(分国主) 尊氏みたいなうつ病野郎の苦悩なんてどうでもいい
土地とりあいやりたいのもっと下級の連中だからよ ぼちぼち太平記のリメイクがあってもよさそうだけど年寄り向けになるからイケメン俳優を使いまくらなければならんだろな
更にNHKが創ると妙に歴史が変えられるから何とも… 尊氏が主人公じゃつまらない
話しがぐだぐだだし南北朝後半から入って義満は、どうだ
山名、大内とも戦うし
最後のおちもまーまーいい 後から考えれば楠木正成に全兵力を任せれば余裕で勝ってたんだよな 顕家に一度東北に帰れって強制した時点で詰んだよね・・・ 勝った事ないのに勝つとか、頭がおかしいのか
勝った事がある奴がまた勝つんだよ
つまり足利尊氏についた奴らは、時代を遡れば義家の家来でもあった
ちなみに、義家軍の伴助兼は、北条時政の母方ど同族らしい
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 大塔の宮を見捨てたからな、あいつが生きてれば可能性はあった
新田あほ過ぎ 先祖が楠木正成って言われてるんだけど、正直ビミョー…我が家系 >>123
実は義満の他に同時期日本国王を自称していたのがもう一人いるんだけど、
その人は南朝筋の皇族だからウヨの人たちは知らんぷりをしているというダブスタ 後醍醐取り巻きの公家衆が無能だったから
戦のことは武士に任せるべきなのに、公家が口挟んで作戦台なしになった >>144
私本太平記は楠木正成の駆け落ちして平野の湿地帯でコジキ夫婦してた馬鹿娘が史料の娘と全く異なるとこはわざとだろうけど色々と凄くエモい 楠木正成は智将と思っていたけど、
実際は敵にウンコを投げつけるオッサンだったんだよな。 >>64
新田義貞が無能だったけど不運もあったよな。公家大将が「佐々木道誉を戦線に配置しろ」の義貞に命令したらしいけど、義貞は「道誉は裏切るから駄目」と断ったのに、公家が強引に道誉を戦線に配置。案の定裏切っているしな。 後醍醐帝は病気なのだ
その病気を育てたのは1000年にも及ぶ朝廷の特権そのものなのだ
そうだな、その意味で言うと帝も被害者なのかもしれない
2000年前ならあれで通じたのに不運な人だ >>233
新田氏は所詮は元負け組なんだから、プライド捨てたらなんも残らんから仕方無いとも言える >>19
未だに大河で一番好きだわ
キャストがめちゃくちゃよかった
特にフランキー堺と片岡鶴太郎 顕家は、ハンニバルと同じ
補給できないからいづれ負ける運命にあっただけ
義貞は、鎌倉攻めの功績で尊氏に変わる武士の大将として期待されたが、その器でなかった
尊氏ほど権威がないから鎌倉ご家人が従わない
正成は、大軍を率いる大将でがそもそもない >>241
病院へいこうで
真田とコンビのコメディだったから
シリアスな一色右馬介かっこよかった
京都に旅した時の尊氏の後ろでお菓子食べてるところは楽しそうだけどw >>190
三河屋だろ
ありゃどうしようもないわ
大河板等さまざまな板で嫌がられてるし >>246
思考がやろやんグンマーと全く同じなんだよな
住んでるところが凄いから俺も凄い!みたいな
ムカつくけど同時に哀れだとも思うんだよね 後醍醐天皇、征夷大将軍が護良親王、その両翼に新田と楠木、北に北畠顕家、南に懐良親王(´・ω・`)
これが実現してたら南朝盤石やったやろな(´・ω・`)
尊氏も大人しく軍門に下ったやろ(´・ω・`) >>248
それだと護良親王が本当にクーデターを企てていたら
一気に体制崩壊するぞ。
だからこそ、後醍醐帝は疑惑が出た時点で彼を処刑した。 尊氏は気前よく配下に所領を与えたから武士たちが集まってきたんだな
大大名作り過ぎて室町幕府は不安定だったけど
等持院ほか複数伝わる尊氏の木像や肖像画は共通してタレ目の人の良さそうな風貌 >>248
恩賞含め社会が武士無くして回らないことを理解して枠組み作らない限りは尊氏を引き込んでも別のアタマを立てるだけになるでしょ
そもそも尊氏自体は後醍醐帝と争う気はあまりなかったはず 南朝が正統と認めているのに、以降の天ちゃんは北朝の流れとはこれ如何に >>250
そうかと思えば勝者の細川顕氏に対して刀を抜いて脅したりよくわからん人物だわ 親房「なぜあのまま足利を京から追い出さなかった!
なぜ伊勢へなど来たのだ!」
顕家「…父上 この戦は一体いつ終わるのです? 顕家はもう疲れました…
それで父上にお会いしたくなり ついフラフラと伊勢へ来てしまいました
申し訳ありません…」
親房「そ…そうか… まあ 茶でも飲め…(涙)」 >>253
よく言われるように躁鬱病だったのかも知れないな
孫の義満も相当お天気屋だったそうだし曾孫の義教もご存知ヤバイ人
精神病は遺伝あるのか分からないけど >>15
日本武尊か神功皇后を見たい
特撮にお金を掛ければかなり面白くなるはず >>111
四条は置いといて、奇行が目立つ帝は政争に敗れて干された系統だから、
奇行ぶりはかなり盛られたもの。 >>252
敗北した南朝関係者の御霊をお慰め申し上げる(怨霊化抑止)ために正統とされている
勝った側が居丈高にならずに謙虚になるようにするために必要なことだ
勝者の野蛮化防止のためだよ >>178
婆娑羅ってのはその中でも飛び抜けてアレだった訳ねw
高師直なんか「天皇に頭を下げるのが面倒だから、木や金でそっくりな像を作って、当人は都から追い出したいものだ」
なんてパヨが感涙しそうな事まで言ってるし、
佐々木道誉は光厳上皇を犬呼ばわりして、行幸の列に矢を射かけているし… >>252
南朝正統論は江戸時代に水戸藩が編纂した「大日本史」以降
太平記での楠木正成人気もそれを後押しした >>255
躁鬱は、遺伝の可能性がかなりあるよ
ただのうつ病なら誰でもなるけど
自殺した先祖もいたよな 建武の新政の時点で無能まるだし
どっかの大統領みたい >>264
こんな状態なんだから王政復古したところでうまくいくわけない
みんな北条をどっけたかっただけ >>254
顕家が戦死した知らせを聞いた近藤正臣の演技がまたいいんだよね。 >>253
それ亀田センセに言わせれば逆だから
(敗者としての尊氏が恐縮しただけ) そういや鎌倉時代までは武士って分割相続が一般的だったっていうけど
有力な御家人とかでもそうだったんだろか >>273
元寇で狂乱の戦闘をしたのもそれが有ったからかもね。
末子でも活躍すれば褒美として土地がもらえる(はずだった)。 こいつの酷さは天皇家の恥だな
まあ直接の祖先じゃないからセーフ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています