「生きていてほしかった」姉のブラウスと面影胸に 広島・原爆の日 
8/6(火) 12:12配信

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190806-00000534-san-soci

 身頃や袖が大きく破れ、黒い絣(かすり)模様は焼け落ち、熱線のすさまじさを物語っている。被爆死した大本利子さん=当時(17)=が、あの日に身に着けていたブラウスは今、広島市の原爆資料館で常設展示されている。
「どんな姿でもいい、生きていてほしかった」。弟の久夫さん(88)=広島県廿日市市=は、かつての姉の姿を胸に、74回目の原爆の日を迎えた。

 「周りの女の子と違っていつも薄く口紅をさして、服を着替えては『これ、似合う?』と尋ねてくる。出かける前にはよく鏡を見て、本当におしゃれな人でした」。
被爆の実相を伝えるブラウス。そのそばには原爆投下1週間前に撮られた遺影も掲示されている。パーマをかけたばかりの髪に飾りを着け、少しすました表情でこちらを見つめる利子さん。久夫さんは静かに姉の面影をたどる。

 昭和20年8月6日、女学生だった利子さんは友人とともに広島市内で建物疎開の作業に向かう途中に被爆。14歳だった久夫さんは父の徳夫さんと探し回り、14日に被爆場所の南約3・5キロの船着き場で見つけた。

 「お出かけ用に」と、母が父の浴衣を縫い直したブラウスは破れ、全身に大やけどを負って、顔も判別できない状態。紙に記された名前が唯一の手がかりだった。「お姉ちゃーん!」。大声で叫ぶと、あごがかすかに動いた。

 数日後に家に連れて帰ったが薬はなく、刻んだキュウリにうどん粉を混ぜて傷口にはる程度。それを母が取り換えるたび、利子さんは悲鳴を上げた。久夫さんは苦悶に満ちた姉の声におびえ、絶叫を聞くたび家の外へ走って逃げ出した。

 気丈な姉は病床で絞り出すように言った。「私みたいな化け物がおったら久夫ちゃんに嫁がこんようになる。私は死なにゃいけん」。その年の10月2日、利子さんは息を引き取った。

 「実の姉を怖いと思って逃げるなんて」。久夫さんは後悔にさいなまれ続け、被爆当時の出来事は心に秘めてきた。それでも姉の姿が脳裏から離れず、そのたびに桐箱にしまったブラウスを出しては「ごめんね」と泣いた。

 父の名前でブラウスを資料館に寄贈したのは被爆から28年がたった48年。戦後、久夫さんは小学校の教員となり教え子らと向き合う中で、「平和教育に役立ててもらった方が姉も喜ぶ」と思うようになったからだ。
姉が恋しくなると資料館を訪れ、担当者に収蔵庫から出してもらっていたが、今年4月の館の改装に伴い常設展示が決まった。

 久夫さんは同月、資料館を訪問。写真の利子さんは、「ありがとう」と語りかけてくれているようだった。「これからはブラウスが姉のことや戦争の怖さを多くの人に語り継いでくれる」。すっと肩の荷が下りた気がした。