1999年、ゴーン被告が日産の最高執行責任者(COO)に就任以降、日産が、いや日本が世界に誇るスポーツカーの運命が、再び動きだした。

 当時の日産は、2兆1000億円もの借金を抱え、全世界でのグループ人員を2万1000人削減し、下請け企業を約半分に減らさなければ立ち直れないような状況だった。

 スポーツカーのような「夢を語る車」は、真っ先に整理対象になって当然であり、実際にその方向で進んでいた。

「コストカッター」として知られるゴーン被告だが、クルマ好き。かつて出演したテレビ番組ではこう語っていた。

「ハンドルを握って5分も運転すれば、どんな嫌なことも吹き飛ぶ。クルマ以外にこんな製品がありますか」

 だからこそ、バブル経済崩壊で新モデルの開発が停止していた「フェアレディZ」の復活プランと、環境性能への対応などから実現不可能と思われていた「GT-R」の開発プランが始動した。

 その後2004年からGT-Rの開発をゴーン被告に全権委任される、開発責任者の水野和敏氏は、かつて取材にこう語っていた。

「あのころの日本人上層部のなかで、『世界の頂点に立つスーパースポーツカーを作りたい』という私の思いをまともに聞いてくれる人はいなかった。だが、ゴーンさんだけは真っ正面から、その思いを受け止めてくれたんです」

 当時、「ゴーンの直轄プロジェクト」というだけでも異例。それが高額なスポーツカーとあって、水野氏には、多くの人からこんな声が寄せられた。