傷痍軍人の怖さは異常
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亡き父と2度の空襲 命の重さかみしめる夏
今年も8月15日が過ぎた。1952年生まれの私だが「戦後」の記憶は多くない。
幼い頃に暮らした藤岡市で、官舎の近くに大きな瓦製造会社があり、職人さんの中におそらく戦禍で片足を失った方がいた。
大きいだるま釜や土を運んでいた栗毛(くりげ)の馬、整然と並べて干された瓦と赤銅色の長い足、断片的だが色彩と音声を伴った映像がよみがえってくる。
警察官だった父の転勤で63年に東京都新宿区に引っ越した際、新宿駅西口付近は「傷痍(しょうい)軍人」と呼ばれた人たちがアコーディオンなどを奏でていた。
白い服をまとい戦闘帽をかぶり足元には缶のようなものが置かれていたと思う。
https://www.jomo-news.co.jp/feature/shiten/76233 昭和の末期に生まれたんだが、本物の傷痍軍人っていつまで見られたんだ? 俺が子供の頃はまだいたなあ傷痍軍人
死んだばあさんは国から補償もらってるくせにと冷たかったのをよく覚えてる >>3
昭和50年代くらいはまだ見かけたよ
アコーディオンは引いてなかったが >>3
国立病院って確か元軍の病院 今でもいるんじゃない 35年近く前かなぁ近所の神社に良く片腕のオッサンが来て駄菓子とか売ってたけど正直怖かったな
紙芝居もやってたみたいだけどそれは見た記憶なし 傷痍軍人は見た記憶ないけど、
炭まみれの万年筆を新聞紙の上に山盛りにしてる泣き売はよく覚えてる
祭りの中のあの一角は子供心にも胡散臭く映ってた 国から保証もらってるから詐欺だよね・・・でも身内が全部亡くなって仕事もなくて仕方なくやってる人も居たなぁ 子供の頃親と行ってた戦闘には
手足が無いのや背中に鬼やら龍やら雷やら描かれた人が沢山居たわ
引っ越したら全くそう言う輩が居る地域からは縁が無くなってまった
(´・ω・) ウリのハラボジもアッパに手伝ってもらって片腕を体に縛り付けたり黒メガネをかけて松葉杖ついて白衣着て街角に立ってたニダヨ。
日によって縛り付ける腕は変わってたニダヨ。
その頃から駅前に住んで知らない日本人の名前を名乗ってたニダヨ。
チョソニンはお金儲けの天才ニダヨ。 大韓民国枯葉剤後遺症戦友会をしらべて見ろ
キチガイっぷりが半端ねぇから 90年頃まで住んでいた団地に戦争で片腕無くした元軍人さんがいたな
よく高そうなシュークリームくれた
色々と貰ってたんかな
子供には優しいが大人にはうるさかったのか、
親はあまり良く思ってなかったのを覚えている >>3
昭和50年前後は和歌山駅前に傷痍軍人おったよ。和歌山はその頃はボンネットトラック走ってた。 池袋駅にもいたな。
軍服姿で台車(車いす用)に座ってる人とか。
子供心に心痛んだが
格好だけの詐欺師がいると聞いて複雑な気持ちになった。 国から恩給貰ってとか言うけど、
恩給は階級に比例して多くなっていたんだよな。
日本軍の兵隊なんて大多数が下っ端なのに生活できる恩給を国がくれたん? 戦時中に国鉄で走ってた客車には『スヘ』という記号の車両があって、名称は『病客車』。
車内は座席ではなく、板張りの形ばかりのベッドと、檻に囲われた居室に別れていたそうな。
今となっては体系的な資料も記録も残ってないそうな。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%97%85%E5%AE%A2%E8%BB%8A >>3
広島の本通りの少尉軍募金の人は昭和までいたかな
子供は折り鶴おれば良かったような記憶 昭和54年に見たのが最後だったな
小学校の担任はあんなのウソだから金やっちゃダメだと言っていた
担任自身戦争に行ったらしい 昭和47、8年あたりまでは、大宮駅の地下道でアコーディオン弾いてたな
あとアコーディオンとのコンビで腕なくてずっと苦しい顔してたのもいたけど
あれはニセモノだったんだろうな 探偵ナイトスクープでよくインタビューに使う大阪梅田の歩道橋に2,3人ゴザ敷いて白装束で座ってるのは平成元年ごろまでは見たな。腕無い人とか足無い人が居た。 水木しげるが片腕で復員後生きていかなきゃならなかったこと抜け落ちてる奴等多いよな ただでさえ怖かったのに親父にお金渡されて入れて来いって言われて最悪だった >>3
小学生の頃(昭和54年頃)には白い服を着て前に募金箱を置いてる
人らが京都駅の八条口にいたわ。 そういや秋葉にも昔いたよね
偽物だったみたいだけど5年くらい前までは見かけたような >>42
その頃に新宿にもいたよ。
ゴザ敷いて何か書かれた看板(といっても貼り紙程度)を横に置いて。
それでカンパを求めていた。
カンパ用の受け皿があり、ラジカセから気色悪い曲が流れて。
足がなかったり、腕がなかったり。
子供ながらに衝撃を受けたわ。 難波の駅前で軍歌ぽい音楽かけてボロ犬と座り込んでるのがいたけど
手足の有無はよく分からんかったわ 昔いたね
街に昼間から
手足のない人が数十人募金箱持って立ってる
中には目が潰れてない人、脳が飛び出てる人とかもいた
子供ながらに日本は恐ろしい国だと思った 川崎駅の地下道にいた
アコーディオンを持ってたけど怖かった 傷痍軍人ってパヨクから人殺し呼ばわりされて石を投げつけられたのかな アメリカのテレビドラマで、両足と右手が無い人が出てた
軍人かどうかは知らんが >>49
脳みそ飛び出てるのに出歩いて大丈夫なの? >>49
脳が飛び出て、なんで生き続けられるんだよww
嘘はヤメロ! 20〜25年くらい前に新宿伊勢丹の横で見た
白装束だけど楽器は演奏してなくて腕や足ない人が座ってるだけだった
当時まだいるのかと思ったが、偽物だろうな 傷痍軍人乞食の殆どは偽物やったからな
小さい頃傷痍軍人の乞食がおって戦争未亡人の婆さんが所属部隊赴任地聴いても殆どの奴がまともに答えられんかった 頭が壊れて引きこもっていた人なら
近所に住んでた
蛇やノラ猫を殺していた
青酸カリ飲んで自殺しちゃった 横浜だが35年位前までは今のビブレの辺りによくいたな >>15
ほとんどはもらえんよ。
年数足らんから。 55年前だから記憶が薄れてるが、両手両足が無い人は見た
昭和50年代迄はあっちこっちで見られたが、平成になってから消えたな 去年の年末にGINZA SIXの前にいたなたぶん
周りは中国人と韓国人だらけなのに
冷静に見るとわけわからん光景 新宿東口から西口の地下道にいた自称傷痍軍人はもういない 小学生の頃、目黒のお不動様の脇道の階段のところに座ってたな
いつも俯いてて異様な感じで怖かった 小学生時代駄菓子屋で片腕のない爺さんがいたけど、戦争関連なのかな? 戦後GHQが重病人を除き恩給を廃止させたから、一時期は重病とは行かなくても
怪我等で仕事が無理だったやつは本当にどん底の暮らしを余儀なくされてた
その後平和条約で主権を取り戻した昭和28年には恩給を復活させてその当時の
支給非対象者にも恩給を払えるようになったから生活は改善されたんだわ
なので昭和40年代50年代のアコーディオン弾きは単なる小遣い稼ぎか
なんちゃっての奴らしかいない状態(ごくごく少数の特殊事例はあったかもだけど)
同時代を生きてた人たちはそういう事十分知っていたから嫌悪してたんだと思う
何も知らない当時の若い人たちは可哀想と思ったかもしれんが >>77
うちの爺ちゃんもフィリピン戦線で右腕無くして、戦後はずっと駄菓子屋やっていたよ
野戦病院で腐った右腕を、
麻酔無しでギコギコとノコギリで切断された話を子供達にしてビビらせてたなw ゼットタケみたいのが道でひれ伏してたら100円あげちゃうな俺 >>12
何で元?ら1270年代じゃあるまいし
釣られねーよバーカ 水木しげるも戦後少しの間はコレやってたのよ
魚屋始めて順調な経営→知人に売り払って、絵の学校に入学 >>3
大阪では天王寺で良くみたな
なぜか白い服着てた
手足がない人ばかりだったな。
お国のために戦ったと言う割に世間の人は冷たかった。 昭和53年くらいだったか見かけたが
いっしょに歩いてた親父はにせものだって吐き捨てるように言った 見たことない ちんどんやも見たことない サンドイッチマンは見たことあるかも 獅子舞が個人宅に来るのは最近見た 昔はいたなあ、乞食もいた
どこの駅もござを敷いて、空き缶を置いて座っている奴がいたものだ 新宿古着屋ワタナベのキモさも異常ですダイバクショウ 傷痍軍人いたなー。
酷いもんだよな。日本のために戦って不具者になったのにコジキしないと生活できないなんて。
俺は日本が戦争になっても戦争には行かねー。 俺が子供の頃の昭和30年代には街で白い着物を着てアコーディオン弾く傷痍軍人がいっぱいいた そんなの知ってるの60か70の爺さんだろ
まあ、そういう記憶が世界から消えていくのは少しもったいない気はするが >>52
昔小田原に住んでたけど、平塚の七夕行くとよく目にしてた。
自分はそれ以来平塚は異国扱い。 傷痍軍人は下北沢にいたな。
昭和50年代生まれだけど、サンドイッチマン、チンドン屋、傷痍軍人、見世物小屋、ストリップ、ミゼットプロレスなど、
ちょっとませてたから全部見た事ある。 俺がガキの頃はよく駅で見かけたな
看板にどれだけ国の為に尽くしたか書いてあってさ 姉貴の芸大入学にあわせて家族みんなで東京に行ったとき
上野公園でアコーディオン弾いてたりしたのを見たな
親父は俺に何も言わずそういう現実もあるってただ見せたかったんだろう
でも俺が現実をまざまざと見せつけられ生まれてこの方経験したことがないほどの衝撃を受けるに至る出来事と言えば
上野公園の件より数年後の
親父のビデオラックの奥から裏ビデオを発見し色んな現実を知ったときなのであった 外国のエアポート行けば
交通事故で脚なくしたオヤジが
道路に這いつくばって物乞いしてるよ。 ギリでガキの頃縁日で見た。機械的な義手がトラウマで親父に何なの?っ聞いたら一言詐欺師のクズ野郎って教えてくれたわ 今46歳だけど、小さい頃上野公園とあと何処かの神社で見たな。
おばあちゃんがお金あげてた。 >>3
精神病の元軍人は存命の人いる
70年ぐらい病室にいるって頭おかしくなる >>90
本当に戦ってた人なら、コジキなんぞしてない
手足が欠損していようとね お国から保障もらってるのに…と蔑む人いたけど
もらえない人も多かったらしいよな
平塚の七夕祭りでよく見かけた 昭和50年生まれの都民だが幼き日の記憶としてガッチリあるな。
とにかく怖かった。 でもニセモノだけどなんで手脚がないの?
昔はすぐ手足がなくなったのか? >>118
うまいコト隠してて、店じまいして帰るときにはニョッキリ生えてくる >>119
なんだそんな初歩的なことやってたんだ。 >>90
戦争に勝てば英雄だけど負けたら疎まれるんだろうな
アメリカもベトナムの時はそうだったろうし 幼心に若松マネージャーが妙に怖かったのは
傷痍軍人っぽい風貌からなんだろうか?と
35年を経て今気づく
https://pbs.twimg.com/media/C9H35KfVoAAzbdi.jpg >>3
秋葉原に数年前まで居たぞ
交通事故に切り替えてたけど >>116
台湾人軍人かで恩給が貰えない人が一部居たけど
軍人会とかが支援運動やってその問題もとっくに解決した 昔デパートの前にいつもいた。「いつもタクシーで帰るくせに!」とデパートの人が追い出していた 白装束で兵隊帽子かぶってたな尺八吹いてた人の両足無かった思ひで >>90
だってなりすまし多かったもん
明らかに戦争に行ってないような下の世代が傷痍軍人の振りするんだよ 傷痍軍人の格好した人たちなら都内に1970年代もいたじゃん
>1952年生まれの私だが
曖昧な記憶じゃないだろ年齢的に 大島渚監督とかの古いドキュメンタリーでしか見たことないわ
手足の障害で東京の国立小児病院に年に数回通ってたけど、手足がない子とかたくさんいて怖かったけど通ってるうちに慣れた 子供の頃、毘沙門さんのお祭で良くアコーディオン弾いてたのを見掛けたけど金田一耕助の映画で踏切を走り抜けるシーンを観てあまり信用してはいけないんだなって思ったわ 日本では、少子社会で社会保障に多くの予算を使わなければならず、
技術の発展に回す予算を少なくせざるを得ない。
国力が弱くなれば、諸外国からの不当な要求に従わざるを得なくなる場面が出てくる。
日本人には富国を考える時だ。 成田山新勝寺にいっぱいいた
サイボーグやん!て目を輝かせてた自分
お小遣いから100円あげた記憶がある・・ 子供の頃、近所の鶴形山によくいたわ
やましいことないのに警官がくると片足だったはずなのに
足が生えて荷物まとめてすんげぇ勢いで逃げ出してたのを見たわ おまえらは右も左も傷痍軍人は自己責任とか言いそうだな 30年くらい前までは駅前にいたな
イラン人のテレホンカードや募金箱軍団に取って代わられたイメージ 1990年代半ばまでは、秋葉原〜銀座の歩行者天国にもいた >>1
池袋の東口にもいたよ
片足を失って軍服を着て
土下座した前には募金の空き缶 >>46
いたねぇ
10年前かな?お上りで行ったとき見かけて血の気が引いたのを覚えてる >>121
ん?マケインって知ってる?
勝ったか負けたかではなく当時の反戦ムードがそれを受け入れなかっただけだが 昭和27年に擁護法が制定
昭和28年に軍人恩給が復活 祖父は軍人恩給もらってたが
なんでおもらいになるんだろ やり方が胡散臭過ぎる
朝鮮戦争の傷痍軍人じゃないのか? 子供の頃に「可哀想だからお金あげていい?」と母親に聞いたら
あの人達は偽物だから上げなくていいのよ。
と言われたわ。
まあ、偽物だわね 子供の頃はホントの気の毒な人だと思って小銭を恵んでやったりしてたのに
長じて詐欺乞食だと知った……親はちゃんと教えてくれよな 少しまえの駅前に坊さんの格好してお経唱えて数名立ってたのもインチキだったしな >>149
うちもそんな感じだった
昭和60年頃までいたけど、いつの間にか居なくなったなぁ たまに渋谷にもいない?
嘘くせーと思いながら素通りするけどw 幼稚園の頃、園長先生がそうだった。
海賊の金具みたいな義手つけてたわ。 手書きの文字とラジカセから流れる音楽がまた怖いんだよな 年末によく渋谷で見掛ける社会鍋と傷痍軍人の募金がごっちゃになってた >>1
あちこちの地方のお祭りの夜店にもいたっけなあ・
なんで終戦から何十年もたってるのに、あのイデタチ?
と、不思議で仕方がなかった。 平成元年の5月ころに八王子の長崎屋の前で見た
ゲーセン行くつもりで握りしめてた100円いれちゃった いまおもうと縁日にいた傷痍軍人ってヤクザ関係?
みかじめ料払わずにあんなことしていたらヤクザが飛んでくるとおもう 俺は見たことないけど昭和50年代まではいたようだな
青森出身の格闘家船木誠勝は子供の頃弘前駅前で物乞いしている
戦傷兵士が結構いたみたいなこと言っていたし >>90
10円めぐんでくれが、しばらくしたら100円に変わってたからみんな愛想尽かしたんじゃね? アメリカで社会に適応できないベトナム帰りについてのドキュメンタリーがあったけどあれもウソだった
不審に思った復員兵が調べたら従軍した記録が誰にも無かったとわかった
特攻帰りを自称した役者もいたし元兵隊はアピールポイントになるのかね 小さい頃、片足失った人を通りから見えにくい横からの角度でじーっと眺めてたら
ゴソゴソ動く度に包帯に明らかに厚みあって、膝から折り畳んでるだけだったな 昭和48年頃の川崎駅前には、数人いたな
アコーディオンは弾いてなかった記憶 戦争から帰ってきて仕事がない人が
路上で靴磨きしてる写真を見たことあるな >>3
平成になるまえ位まで上野広小路に立ってるやつ居たけど年齢的に若かったから
偽だと思う >>4
自分もばーさんとか近所の年寄りが
あれは詐欺だからねって言ってるのをよく聞いたわ
昭和30年位まではガチなのが居たけどそれ以降は詐欺が増えてたように思う 傷痍軍人とは違うかもしれないけど、実家の隣に住んでいたいつも着物姿のお爺さんが片脚がなくていつも両松葉杖だった
今でも活躍している芸人さんの実家だ >>158
居たね
今ソフマップになってるあたりに居た もの悲しいアコーディオンと容貌が怖くてお祭り行くのが嫌だったな
昭和58年頃熊本城で見たのが最後
トラウマになってるから悪いけどパラリンピックとかも怖い >>173
それ朝鮮人の乞食が自称「傷病兵」としてカネ稼ぎしてた詐欺だぞ お祭りにいたよなハーモニカやアコーディオン弾いてる人(´・ω・`) 死んだ祖父が片足なかったよ
義足痛いって言って詳しい事は語らずに逝ったな 親父とお袋に子供の頃傷痍軍人見たことあるか聞いたら
なんでそんな事聞くのかと言われ怪訝な顔してた
やはり社会的にデリケートな話になるのかこの事は >>43
水木は片腕だから生き残ったといってるし
片腕だからマガジンの奴が同情して連載された >3 25年前の銀座には居たな 銀座で働いていたから覚えている 昭和50年前後かな。上野動物園行く途中で見た。
父は「ははw傷痍軍人さんだね」と笑うばかりで募金なんてしてなかったな。
まぁデカイ音で音楽流してるし白装束で不気味だった。 >>52
80年代まで平塚七夕祭りには居たね。足無い人とか手無い人だから本物だと思うけど親父は乞食扱いしてた。露天で当時流行っていたスターウォーズのプラモを物欲しげに見てた気持ちは失せた。オレも平塚は悲しい場所と記憶されてる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています