バンドワゴン・プロデュース代表取締役社長の加藤徳義氏は、元IBM Mobile Computing GM補佐を務めていた。
大和研究所が中心となってノートPC事業(これがThinkPadにつながっていく)を立ち上げようとしたとき、大和研究所と米IBMの連絡役として1991年に米国に渡っていた。

一方の米IBMはPC事業を「やればやるほど損」と評価していて、できることならPC事業を早々に売却したいと考えていたという。
そうした背景からノートPCに対しては最初から「日本にやらせるつもりはなかった」と加藤氏はいう。

そのような事情を知る日本IBMからは「ノートPC事業立ち上げを快く思わない米国IBMの内情を探り、じゃまする動きがあれば伝えよ」という諜報員としての任務も与えられていた。

しかし、米国に到着した加藤氏は米国IBMから「日本IBMの動きを逐次報告せよ」と命ぜられる。
米国IBMが日本人の加藤氏にスパイになれと指示した理由には「あなたはPS55や5550(の事業に関わっていないので)に対する愛情はないから、PC事業部をなくすことに抵抗がないだろう」という思惑があった。

そのような状況でどのようにしてノートPC事業を立ち上げることができたのか。
加藤氏は「それまでのIBMはいけてなかった。やぼったかった。だから新しいブランドを立ち上げる必要があった」と述べる。

(中略)

「なので、最初につくったThinkPadのロゴってIBMの文字が入っていなかったんです」(加藤氏)

しかし、このIBMの文字なしロゴは米国IBMから反対される。
そこで加藤氏は米国IBMにPC事業部売却の可能性を問いただした。
「すると彼らは売らない、というんですね。で、ずっと売らないのかと聞くと、すぐには売らないという。
いつまで売らないんだと聞くと、10年は売らないと。
それで、その言葉を文章にしてもらって1992年から(ThinkPadの事業が)スタートした」(加藤氏)

その後、“ほぼ”10年が経過した2005年にIBMはPC事業をレノボに売却するが、当時、PC事業の売却を予想して既にIBMを辞めていた加藤氏も「まさか中国の企業に売るとは」と驚いたそうだ。

http://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/1808/15/news069.html