斎藤義龍が斎藤道三に謀反した際、道三が兵1000人、義龍に15000人が集まったので道三は逆に感激した
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スクエニとヴァンガード、『戦国やらいでか -乱舞伝-』で「リリース1000日 記念3大キャンペーン」を開催
http://gamebiz.jp/?p=204265 道三が油売って銭の穴を油垂らして銭を濡らさずに通すって技をやっててスゴイだろ >>101
ムリムリ
農閑期とか関係なく、生産力=人口だから、貧しい国には人そのものがいない
1万石で招集出来るのが250人辺りまでって言われてるから、
今川や武田の全兵力は18000人って事になる >>104 1万石で招集出来るのが250人辺りまでって言われてるから
プッ 1万石250人はあくまで軍役の目安として採用される例の多い数字であって動員限界ではない
備1つ=200から300人くらいなので万石持ちは最低備を1つ持つべしということ
どうもこの数字も武者と足軽合わせた戦闘要員のみなのか、雑役人夫を入れた総数なのか場合によって違うので実態がよく分からない
よく出てくる明智家中軍法ってやつだと1万石で総数600人とかになる
これが戦国時代の標準的な定数だとするならやろうと思えば1万石で1000人くらいいくんじゃね
遠征でそこまでやったら破綻するだろうけどね 遠征軍でなければ農閑期なら一万石で2000人ぐらいまで動員できるんじゃね?
一万石は一万人の人口を養えるってことだからな 国持ち大名の満を持した遠征じゃなくて美濃国の内乱だぞ
そんな戦に万の兵を動員できるわけ無いだろw >>23
芸術家肌だった。決して凡人だったワケではない。
特に鷹の絵は現代でも高い評価を受けている。
今川氏真もそうだが、生きるか滅びるかの戦争中に芸術だのスポーツだのは無用って事だよね。 明智光秀家中軍法だと確かに100石で6人になってるけど、
後を読んでいくと戦闘用員が1000石で30人弱とか書いてあるんだよな
つまり、1万石で600人ってのは荷駄や整地、建設用等の非戦闘要員を含めての数って事になる
実際の「兵」数としては通説の1万石250人は間違ってないよ 龍興は単純に若かったんだろ
家督ついだのが14歳で、そのあと数年間は信長の進軍を阻み続けて、ついに岐阜城落とされて三重に逃れた時ですら20歳だぞ
ろくな家臣もいないこの歳の子供に無能無能言うのは流石にひどくないか? >>112
信長は18で家督継いで20で尾張平定して26で上洛してるんやで >>113
14と18じゃ全然違うわ 中2と高3だぞ どんな理由があれ親父殺しは当時でも極悪だよ。あの信玄だって追放止まりだしな それ以前に、道三死亡が1556年で義龍死亡が1561年
5年で領主が2回も変わったら家臣団もガタガタでしょ >>111
ソースある?俺の知ってる明智光秀家中軍法は1000石の場合に用意しなければいけない軍備の数しか書いてない 117くんへ。コレだ。
十八 千石は、甲をかぶった者四人・馬五頭・指物十本・槍十本・幟二本・鉄砲五丁を出す。
馬乗一人の着到は二人分になぞらえる。 >>119
それは武装の最少基準であって兵の動員数とは違うでしょ あだ名がマムシとか嫌だな
コブラとかだったら格好良かったのに 親子二代の逸話が一人の斎藤道三に集約されたんだっけ
油売りとかは道三の父親なんだよな >>121
じゃあ俺が今日から尾張のコブラを名乗るか >>92
古公亶父が治めた地、岐山と
周公旦が治めた魯の都、曲阜から
来ている
これは信長が名付けたのだが、
完全に周王朝を理想としているから
かなり儒家に被れているのがはっきりしている 一万石で250人とかの数字は
兵農分離後の話じゃないのか?
禄高四石の貧乏侍とか普通にいたし 岐阜城のてっぺんまで登って周りを見渡すと
何となく信長の気持ちがわかるような気がする
「今ここから見える範囲が全部自分の物になった この勢いで天下も…」 >>111
人口の40分の1だから正しいんじゃないの
あの大東亜のような戦争でも無理矢理かき集めて、
500万人ほどだから人口の20分の1程度
この程度で無いと、生産に従事する人間が
かなり不足する
江戸時代士族は人口の7パーセントだが、
女、子供、老人除けば兵力なんて、その3分の1
いかないからね >>127
禄高四石なんていないだろ
10俵扶持だろ >>128
金華山のあたりって平地に突然あらわれた山だから見晴らしいいんだよね
眺めだけで言えば百々ヶ峰の方が上だけど、あそこは戦国時代に戦略的な拠点とかにはならなかったのかな >>128
遠くから攻めてくる軍勢も丸見えだし
雨の日とかじゃなければ攻めにくそうな城 >>129
だから農閑期しか戦ができなかったともいえる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています