斎藤義龍が斎藤道三に謀反した際、道三が兵1000人、義龍に15000人が集まったので道三は逆に感激した
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http://gamebiz.jp/?p=204265 義龍が長生きしたら面白かったのに
道三もあの世でガッカリしたことだろう >>3
ほんそれ
義龍が長命だったら信長もただの尾張の小大名として終わっていたかも。
もしかしたら尾張守護の斯波家や本家織田家と結んだ義龍によって逆に滅ぼされていたかも知れないしね 道三の油売りは司馬さんの創作だけどね
まぁ、下克上には違いないが >>5
岐阜の黄金期は少し前の土岐氏がらんじゃたい貰ったとき 今の、何もない岐阜県のイメージがあるから
なんで信長は美濃攻略に何年もかかってるんじゃって思うけど
当時は日本有数の大都会なんだよな 義龍は家臣抱き込んで親父隠居させたり弟おびき出して殺したり美濃の統治体制確立したり智略に優れた人ってイメージ >>15
大都会って言うか石高が濃尾で100万石って言う上国だからね
更に美濃源氏も当時は名門だったし 斎藤義龍って織田信長をフルボッコに
した事あるんだっけ? >>18
した事あるって言うかしてた
義龍早死にじゃなかったら美濃はとれなかった >>16
義龍は傑物だったのに何で龍興はあんなにぼんくらだったんだろう? >>23
じいさん親父の教育まともに受けてないし
大事に育て過ぎられたと思われ >>19
肥沃な濃尾平野の一角を担い、中山道から京に至る物流と交通の要所だったから 病気がちだったからどちらにしろ長生きは出来ないな
義龍は行動が遅いので、それ以上の勢力拡大は難しかっただろう 義龍の代になって足利義輝から三管領の次のポストの御相伴衆に選出されてるからな
関東の北条氏や安芸の毛利氏や駿河の今川氏と同格と認められたということ
織田や武田や長尾・上杉よりも格上の存在 >>28
三管領の下って政所執事、侍所諸司じゃね? 信長が美濃平定に8年とは言うが
武田信玄の信濃平定は二代で十数年かけてるし
徳川家康の三河平定は6年掛かってるし
織豊政権期のパワープレイが異常なだけ 15000もいねえだろ。
今川でも30000がやっとだぞ >>39
今川も30000も集められないよw
石高的に無理
尾張=美濃=三遠駿位だから >>33
三管領・御相伴衆は身分地位で
管領・政所執事・侍所諸司は職責や >>41
じゃあ、御相伴衆って沢山居るねw
伊勢氏何て2〜3家(北条含め)御相伴衆だし 秀吉は、清洲会議の時は3つぐらいしか国がなかったのに、
なんであんな光速で天下統一ができたんだ?
家康が最速でやって、甲斐、信濃を配下に置いた頃は、
秀吉は、畿内、北陸、中部を治めどうにもならなかったとか…
天下人になってからのゴミみたいな政治といい、不思議だ。 >>19
呪術的なパワースポットとか言うんだったら面白いのにな。
四天王寺、難波宮から始まって、蓮如、秀吉、家康って取り合いしてた上町台地とかも、
絶対なにかあると思う。 >>43
秀信の後見人=織田の後見人=織田の所領=秀吉みたいな感じなんじゃね? >>43
光秀討伐時に光秀の旧領を吸収。
その後の清洲会議の国分けで一番の武功者という理由で京や堺等の近畿地方をもらい、加えて織田宗家の後見人としての立場で宗家の領土も暫定的に支配できるようになったからだと思う 金ピカ信長像なんて建ててるんじゃねえぞ
道三の方が信長よりも岐阜の武将にふさわしいだろ 斎藤道三の実子だとしても、親殺しと謀反人の汚名を避ける為に
土岐頼芸の息子と主張するのが合理的
従う家臣も同様 ほんと土岐頼芸の隠し子だって話は、どうなんだろうな。体格とか。
室町幕府の守護や守護代家は、要するに鎌倉武士の末裔だから、それこそゴリマッチョの印象あるだろ。
のちの戦国大名は、斎藤道三も含めて、そんな印象無いけど。 今は寂れたソープ街くらいしか見るべきもんがないのに 年末くらいに織田信長(渡辺謙が主演)の再放送やってたけど、道三役の松方弘樹がいい味出してた
そして渡辺謙は伊達政宗にしか見えなかった 15000なんて兵 当時いたか?
元々道三は家臣の主君を追い出して家臣たちに恨み買ってるからな 岐阜市の中心からでも切り立った崖の山が見えて交通の要所というよりか
難所って感じだったのにあれでも昔は栄えてたんだな 現状だと15000人と言うとミスチルとか嵐の一つのliveより大分人数少なくて、1000人だとzepp東京も全然埋まらないぐらいか。。。
TOYOTAの正社員の方が全然多いな >>58
戦国時代の日本の人口は推定1000万人くらいだぞ
今の十分の一以下だからそんな比較は意味が無い >>54
腐れ坊主共(商工金融極道ギルド)の加勢だと思う >>43
戦国時代ってのは消耗戦をやっててどこも限界に来てたわけね
めちゃくちゃな戦争をしてた
だから大軍で来られるとあっさり降伏するか玉砕しか手段がなかった ただ傑物は多軍VS寡兵との戦いに勝っている
信長の桶狭間 2000 VS 2万
氏康の河越城 1000 VS 4万
元就の厳島 3000 VS 3万 ただ鉄砲足軽の物量組織戦法が信長によって確立されると
もう大軍相手に寡兵で勝てる事は不可能になった >>23
まだ子供だったから仕方なかったって聞いたことある
まあどんな大人物もそれなりの歳になるまではパッとしなかったりするしな 早死にしすぎて評価出来ないけど道三は信長の方を評価してた事は確かみたいだな 戦国時代に身の丈2mって本当の化物だろ
今でも2mなんて巨人なのに >>16
さすがに智略うんぬんまでいうのなら侵略なり謀略で領土獲得しないと
うちうちでうまくいっただけ 岐阜はまぁアカン
ところで道三って現代の警官だった人だよね 死ぬのが後10年遅かったら確実に信長は天下取れてない >>11
今川吉本が上洛→本願寺に対抗できず一向一揆政権誕生 パヨクの集中攻撃受けて民主党系市長が誕生したし最悪ですよ >>75
大阪夏の陣よりやばい状況だもんな
多分中国王だった頃の毛利より強い うちのご先祖さま、道三 側についてひどい目にあった >>5
滋賀、岐阜って東山道東海道の要だぞ
少なくとも江戸時代までは重要地 義龍は若いうちは油を作ったり秀吉の使いっぱだったりとかなりの苦労人だという説もあるな 斎藤龍興は無能みたいに扱われてるけど信長に徹底抗戦してるんだよな
蹴鞠を披露したあいつは再評価されてるのに >>60
街の名前からして岐阜だしな。
周王朝発祥の岐山にちなんでるんだとすれば、岐阜を制するものが天下を制する
みたいな考えは有ったかも。
実は日本版の封神台が有ったとかの方が楽しいけど。 >>92
それ、岐山から名前を取って信長が岐阜と名付けたんだろ >>92
岐阜って名前は信長がつけたんじゃなかったっけ? >>91
創造でかなり能力が下がった。過小評価から過大評価になりつつある。 戦国時代は江戸期よりも平均身長は高かったらしいが、それでも栄養状態が庶民よりも高い武将クラスで160pは無いくらい
義龍やら秀頼が2mクラスってのは風聞で盛り過ぎたんだろう
実際は180p無かったんだろうな
軍勢の数も盛り過ぎだよ
70万石の今川が2万〜3万も動員できるワケがないし、最大70万石の信玄が3万率いたなんて不可能 >>100
動員できるわ
農閑期の戦なんて成人男性丸ごと連れてくんだぞ 道三が油売って銭の穴を油垂らして銭を濡らさずに通すって技をやっててスゴイだろ >>101
ムリムリ
農閑期とか関係なく、生産力=人口だから、貧しい国には人そのものがいない
1万石で招集出来るのが250人辺りまでって言われてるから、
今川や武田の全兵力は18000人って事になる >>104 1万石で招集出来るのが250人辺りまでって言われてるから
プッ 1万石250人はあくまで軍役の目安として採用される例の多い数字であって動員限界ではない
備1つ=200から300人くらいなので万石持ちは最低備を1つ持つべしということ
どうもこの数字も武者と足軽合わせた戦闘要員のみなのか、雑役人夫を入れた総数なのか場合によって違うので実態がよく分からない
よく出てくる明智家中軍法ってやつだと1万石で総数600人とかになる
これが戦国時代の標準的な定数だとするならやろうと思えば1万石で1000人くらいいくんじゃね
遠征でそこまでやったら破綻するだろうけどね 遠征軍でなければ農閑期なら一万石で2000人ぐらいまで動員できるんじゃね?
一万石は一万人の人口を養えるってことだからな 国持ち大名の満を持した遠征じゃなくて美濃国の内乱だぞ
そんな戦に万の兵を動員できるわけ無いだろw >>23
芸術家肌だった。決して凡人だったワケではない。
特に鷹の絵は現代でも高い評価を受けている。
今川氏真もそうだが、生きるか滅びるかの戦争中に芸術だのスポーツだのは無用って事だよね。 明智光秀家中軍法だと確かに100石で6人になってるけど、
後を読んでいくと戦闘用員が1000石で30人弱とか書いてあるんだよな
つまり、1万石で600人ってのは荷駄や整地、建設用等の非戦闘要員を含めての数って事になる
実際の「兵」数としては通説の1万石250人は間違ってないよ 龍興は単純に若かったんだろ
家督ついだのが14歳で、そのあと数年間は信長の進軍を阻み続けて、ついに岐阜城落とされて三重に逃れた時ですら20歳だぞ
ろくな家臣もいないこの歳の子供に無能無能言うのは流石にひどくないか? >>112
信長は18で家督継いで20で尾張平定して26で上洛してるんやで >>113
14と18じゃ全然違うわ 中2と高3だぞ どんな理由があれ親父殺しは当時でも極悪だよ。あの信玄だって追放止まりだしな それ以前に、道三死亡が1556年で義龍死亡が1561年
5年で領主が2回も変わったら家臣団もガタガタでしょ >>111
ソースある?俺の知ってる明智光秀家中軍法は1000石の場合に用意しなければいけない軍備の数しか書いてない 117くんへ。コレだ。
十八 千石は、甲をかぶった者四人・馬五頭・指物十本・槍十本・幟二本・鉄砲五丁を出す。
馬乗一人の着到は二人分になぞらえる。 >>119
それは武装の最少基準であって兵の動員数とは違うでしょ あだ名がマムシとか嫌だな
コブラとかだったら格好良かったのに 親子二代の逸話が一人の斎藤道三に集約されたんだっけ
油売りとかは道三の父親なんだよな >>121
じゃあ俺が今日から尾張のコブラを名乗るか >>92
古公亶父が治めた地、岐山と
周公旦が治めた魯の都、曲阜から
来ている
これは信長が名付けたのだが、
完全に周王朝を理想としているから
かなり儒家に被れているのがはっきりしている 一万石で250人とかの数字は
兵農分離後の話じゃないのか?
禄高四石の貧乏侍とか普通にいたし 岐阜城のてっぺんまで登って周りを見渡すと
何となく信長の気持ちがわかるような気がする
「今ここから見える範囲が全部自分の物になった この勢いで天下も…」 >>111
人口の40分の1だから正しいんじゃないの
あの大東亜のような戦争でも無理矢理かき集めて、
500万人ほどだから人口の20分の1程度
この程度で無いと、生産に従事する人間が
かなり不足する
江戸時代士族は人口の7パーセントだが、
女、子供、老人除けば兵力なんて、その3分の1
いかないからね >>127
禄高四石なんていないだろ
10俵扶持だろ >>128
金華山のあたりって平地に突然あらわれた山だから見晴らしいいんだよね
眺めだけで言えば百々ヶ峰の方が上だけど、あそこは戦国時代に戦略的な拠点とかにはならなかったのかな >>128
遠くから攻めてくる軍勢も丸見えだし
雨の日とかじゃなければ攻めにくそうな城 >>129
だから農閑期しか戦ができなかったともいえる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています