チンギス・ハーンは1162年、モンゴルの有力な氏族長の長男として生まれ、テムジンという名を与えられた。父は勇将であったが、テムジンが9歳の時に急死、一族は急激に没落する。
他部族に圧迫されながらも母や父の盟友たちの手で優れた武将として成長し、幾度かの厳しい戦いを乗り越えて、1205年にはモンゴル諸部族を統一するに至る。

 その後も征服を進め、1227年のハーンの死までに、東は長城を越えて西夏(中国北部)へ、西はシルクロードを越えて中央アジアから黒海沿岸に達した。モンゴル軍団の遠征はハーンの死後も続き、中国全土を制圧して元朝を樹立、西はハンガリー平原に達した。

 チンギス・ハーンのY染色体は中央アジアから中東まで分布し、村の先祖がチンギス・ハーンだという伝説のあるパキスタン北部フンザでは特に多い。

 比較的短期間に特定のY染色体を持つ人が広がった根拠として、貴族階級の間で一夫多妻制が一般的だったためではないかという説が有力である。
倫理的な問題はともかく、歴史的に、征服者の男性が被征服者の女性に子どもを産ませるのは珍しいことではない。
しかしながら、彼らをチンギス・ハーンあるいはギオチャンガの子孫とすることについて、スタンフォード大学のCavalli-Sforzaは、共通の先祖を想定できても歴史上の特定の人物の子孫と断定するのは無理としている。

 ただ、いずれの研究でもこのY染色体は、日本人には全く見られない。この事実から、同時代の軍事的天才だった九郎判官、源義経が平泉を脱出し蝦夷から大陸に渡り、チンギス・ハーンになったという伝説は否定できる。

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