工作員の「浸透」と「復帰」

北朝鮮の元工作員である金東植(キム・ドンシク)氏は、彼らがどのようにして対象国を出入りしているのかを、生々しく語ってくれた。
工作員たちが対象国に潜入し、その社会に溶け込むことを「浸透」、母国・北朝鮮に帰国することを「復帰」と呼ぶ。
ここではまず、金元工作員が語った、極秘出国当日の様子を描いてみよう。

……夜、11時。土を盛っただけの墓地の茂みの中に、金東植は潜んでいた。月明かりのない、新月の夜。
坂を登って来る人影が見えた。足音はしない。男だ。二人いる。一人がついてこいと手を動かした。

金工作員は、老身の女工作員・李善実(イ・ソンシル)を背負って二人の後を追った。男は松の木の下を指差した。
金工作員が近づくと、人数分の潜水服が置いてあった。

その場で潜水服に着替えた。

再び暗闇を歩き始めた。田んぼを抜け、李善実を背負って歩き続けた。ここで誰かに見られれば、全てが終わりだ。

海の匂いがする。道路を渡り、階段を降りると、目の前は海岸だった。波打ち際に黒い影があった。半潜水艇だ。
海水に腰まで使って乗り込んだ。金工作員の任務は、その瞬間、完了した――。

「当時80歳近かった高齢の李善実を『復帰』させる作戦は難しい任務だった。お年寄りは早く歩けないし、発見されれば逃げることは不可能だ。
『浸透』と『復帰』は同じ場所で行うのが原則なのだが、私が浸透した済州島は遠いから断念して、江華島から復帰することにした」(金元工作員)

北朝鮮の権力序列で19位にまで上り詰めた伝説の工作員、李善実を無事、平壌に連れ戻すことは、北の工作機関にとって極めて重要な作戦だった。
その任務を与えられたのが、1990年当時、20代だった金東植元工作員だった。

ことは慎重に運ばれた。実行の2ヵ月半前である8月には、「10月中旬復帰決行」と決められた。
高齢の李善実に配慮して、浸透地点である済州島からの復帰を断念。ソウルから1時間ほどの江華島を復帰地点に選んだ。




日本に自由に出入りする「北朝鮮工作員」驚くべき実態
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53199