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12/11(月) 8:55配信

年末は音楽特番のシーズン。今年は”覆面シンガー”のAdoが話題をさらいました。『ベストアーティスト2023』(12月2日放送日本テレビ)と『FNS歌謡祭』(12月6日放送フジテレビ)でスタジオパフォーマンスを披露すると、圧倒的な歌唱力に“恐ろしくうますぎる”とか”エグい”などと絶賛の声が相次いだのです。

筆者も驚きました。裏声にヨーデル、さらにドスの利いたシャウトを使い分ける喉の強さ。カラオケのように歌うのではなく、演劇的な抑揚で歌詞を”読み上げる”プレゼンテーション。それらを一瞬のもたつきもなくやり続ける持久力。どこをとっても、かつていなかったタイプで、様々な能力が突き抜けていると感じました。しかしながら、こうしてAdoの能力が際立つほどに、筆者には昨今の日本のポップスが抱える問題が見えるのです。ここからは、Adoをはじめとしたいくつかのヒット曲が浮き彫りにする論点を考えていきたいと思います。

それはすでに世間の感想にあらわれています。みんなAdoの歌はスゴいと言うけれど、肝心の曲について、いい曲なのか悪い曲なのか。美しいのか、心地いいのか、そこへの言及がほとんどないのですね。どういうことかというと、歌手の役割は、音楽、曲のイメージを聞き手に伝えることなのに、Adoとなると曲そっちのけで彼女のボーカルが圧倒的だという評価であふれてしまう。これでは本末転倒なのではないでしょうか?
中略

King Gnuにも同じことを感じました。どこの国のヒットチャートを見渡しても、彼らほど複雑なことをやっているミュージシャンはいません。なのですが、彼らも行っていることの難しさがどんな人にもすぐに伝わってしまう。複雑さが消化されないまま、作品の表面に残ってしまっているイメージなのですね。だから、歌や演奏が、難しいゲームを攻略しているように聞こえてしまう。自らの腕を証明するために、曲中にわざと難所を仕掛けているといったら意地悪でしょうか。スティーリー・ダンのように、あたかも自然に聞こえるのなら問題ないのですが、King Gnuにおいては曲全体のまとまりではなく、局所的なとんがりがフックになっている。そこにAdoに通じる問題があるのですね。

彼らに限らず、日本のヒット曲は狭い範囲でのテクニックや高難度の音楽的な仕掛けがインフレを起こしている。とても内向きになっているのではないかと心配する理由です。

こういうことを言うと、“難しいことができるのは実力がある証拠じゃないか”と言われるかもしれませんが、優れたミュージシャンは難しいことをしているようには見せません。欧米のヒット曲ならば、テイラー・スウィフト、ジャスティン・ビーバー、エド・シーラン、ポスト・マローン。みんな簡単です。少し練習すれば誰もが一応は真似できます。その意味では全然スゴくありません。

それでも彼らがスターであるのは、手先の器用さや識字的かつ計算的な勉強ではなく、音楽に全人格を込めているからです。だから、曲自体はとことんシンプルでかまわないのです。誰にも真似できないエッセンスがあるので、その音楽は開かれている。

残念ながら、AdoやKing Gnuの音楽には、開かれた感覚を感じませんでした。確かにその技芸は鋭い。長年の研鑽のたまものではある。しかしながら、その種の“秘技”は一代限りで途絶えてしまうものなのではないか?必要以上の難度、複雑さの裏側には、ナイーブな生真面目さがあると思うのです。昨今のヒット曲が脆いと感じる大きな理由でもあります。

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