【芸能】田原俊彦が〝ジャニーさんと過ごした〟6年間の合宿所生活を回顧「もう快適」 [Ailuropoda melanoleuca★]
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2023年5月29日 23:10
歌手でタレントの田原俊彦が29日までにユーチューブチャンネル「田原トシちゃんねる!」を更新し、ジャニーズの合宿所について語った。
「大スターの間取りが知りたい」をテーマにトークを展開。田原は6歳から18歳まで山梨県甲府市で暮らしたがその後、東京・飯倉片町にあるジャニーズの合宿所で生活するようになった。
田原は「合宿所は僕の家の10倍ぐらい大きかったね。間違いなく150平米。そのぐらいはありましたね」と証言。当時「3年B組金八先生」に出演中で「マッチ(近藤真彦)もよっちゃん(野村義男)一緒に(暮らしてた)」と話した。
スタッフから「ジャニーさんも(一緒に)お住まいだんったんですか?」と問われると「もちろんここがジャニーさんの住まいですよ。(ご自宅を寮のようにしていた?)そうそう」と答えた。
田原は合宿所に住み始めて1年後にデビューしたため2年ほど生活し、それから原宿の合宿所に移った。飯倉片町の合宿所が「150平米だとしたら(原宿の合宿所は)250平米。表参道の路面のワンフロア。リビングは40畳はあったな」と回顧した。
田原はジャニー喜多川氏の隣の部屋で「(一人部屋ですか?)もちろん、20畳ぐらいあったんじゃない?」と話した。近藤真彦の他に「少年隊の3人。男闘呼組もいたなぁ。その後半には光GENJIの子たちもいたし」と豪華な顔ぶれだったようだ。
また当時の給料事情についても「何しろこの時代のジャニーズっていうのは会社側の方が強いですからね。月給30万円で死ぬほど働いた10年間」と明かした。
「ある日僕は気が付きます。これだけ仕事して、これだけコマーシャルやって。相当な稼ぎがあるんじゃないかな。それをメリーさんに交渉しました。渋々OKしてくれて、それから歩合になったのかなみたいな。最初の一歩っていうか。強固な扉を叩いたというか壊したのは結構、僕だったり」と話した。
月給30万円だったがレコード印税が何千万円もあったため「月給30万円がどうでもよくなるの(笑い)」という理由もあったようだ。
合宿所について「でっかい部屋をもらって。おいしいものを食べれて、洗濯はしてくれるわ。もう快適。6年いた。ジャニーさんも『早く出てけ』ぐらいな感じ(笑い)。僕は渋々自分の買ったマンションに引っ越した」と話し、笑いを誘っていた。
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/264779 ハッ?としてグッとして、ドバッと・・
あ〜んE気持ちぃ〜 >>840
沖田浩之が混じってんぞw
沖田浩之はジャニーズじゃないしw
金八先生でその沖田浩之を好きなホモっ気見せてた生徒役やってたひかる一平はジャニーズだったけどな。 ひかる一平の椎野一役はガチ!
ジャニーさんにコチョコチョされてたからこそできた役柄やったんやな さすがカズが憧れるだけある
周りの空気が読めないし、気を使わない つーかトシちゃんて若い頃はスッゲェ狂暴で切れると事務所のガラスというガラス叩き割ったりメリー以外は全員(じいさん含む)逃げ出してたくらいだから
ホモ ゲイにとっては一番苦手なタイプではある >>848
へーそうなの?
よくわからないがそれで自分を守れてたならよかったね
メリー以外はってメリーってやっぱり相当だね
この人が全て都合の悪いこと揉み消したり握り潰してたりしたんだろ?
只者じゃないよな よっちゃんもジャニーさんにやられてたのかな?そこだけが気になる
トシはどーでもいい 諸星和己がトシちゃんを激怒させた事件を告白
諸星和己が14日放送の日本テレビ系『ダウンタウンDX』(木曜、後10・00)で、アイドル時代の秘話を披露している。
当時、合宿所で一緒だった先輩、田原俊彦を激怒させた「エビフライ事件」を告白する諸星。合宿所では、先輩が帰るまでご飯を待つという決まりがあったが、帰りを待ち切れない諸星ら後輩たちが田原の大好物のエビフライを食べてしまったという。
「夜の8、9時になったので、トシちゃんはもう外で食べてきただろうと思って。そうしたらトシちゃんが帰ってきて、皿を見た瞬間“みんな集まれ。3本以上食べたのは誰だ?”って」と、田原のまねをしながら振り返る。
結局、諸星は正座させられ、田原に説教されたそうだ。 諸星和己、「104牛乳」伝説の真実明かす「殴られはしなかったけど、正座させられた」
ジャニーズの寮にいた時代、共同の冷蔵庫にある「104」と書いてある牛乳はすでに大スターだった田原俊彦(59)の物だったため、飲むのは厳禁だったという伝説について聞かれると、「これは有名な話ですよ。(飲んだら)殴られはしないけど、ずっと正座ですよ」と諸星。
「廊下に正座していると、そこにジャニー(喜多川社長)が来て『ユー、なんで正座しているの?』って言うから、『トシちゃんに言われて、正座しているんです』って言うと、『ユー、そんなのいいからお風呂入っちゃいなよ』って言われて。俺、お風呂入りに行って、『なんで、イチゴ牛乳飲んだくらいで怒りやがって!』って、シャンプー手に取ったら、104って書いてあった」と笑わせ、「合宿所いられなくなって、いい部屋見つけたんだけど、その部屋番号が104でやめた」と続けていた。 >>852
自分に提供された曲の ニンジン娘 を初めて聴いた時の怒りは特に凄まじかったらしいよw まぁ気持ちは分かるけど・・・ アッーとしてー!
ウッとしてー!
にゃーにゃーにゃにゃさー! ジャニー喜多川社長の“永遠のスペオキ”と言われる堂本剛が10日、神奈川県で行われた自身のソロライブで、ジャニー氏の亡骸にキスをしたことを明かした。
ジャニー氏の歴代スペオキ(特にお気に入りのジャニタレ)の中でも、特に相思相愛だったことで知られる剛。ジャニー氏が所有していた東京都渋谷区の高級タワーマンションの最上階を剛名義に変更し、2人で同棲生活を送っていると報じられたこともあった。
https://entamega.com/20080
【歴代のスペオキ】
郷ひろみ→嫌々キスされる
佐藤敦啓→嫌々キスされる
松潤→嫌々キスされる
東新良和→嫌々キスされる
中山優馬→嫌々キスされる
堂本剛→自分から死体にキス→相思相愛 >>847
こういう立ち振る舞いはトシちゃん得意やな >>1
にんじん娘って曲までそういう意味なんって思っちゃうよな >>856
それなのにやり切ったのは素晴らしいなw
そんな思いがあったとは観客に微塵も感じさせてないw 合理的に考えてのべつまくなしに手を出しまくってたらとっくに逮捕されてたろうから
被害を受けてたジュニアなんてごく一部だろう
ほとんどのメンバーにとっては本人達自身にとってすら都市伝説だったんだろう
今日はヒムをホモしたよなんて言うわけないしな
ジャニアンチの悪質なのは被害者はごく一部なのにジャニーズ全員がホモされてると関係無いメンバーまで卑劣な誹謗中傷してること
ジャニーズが潰れて誰が得するかを考えたら一連の騒動の背後の黒幕がどういう勢力なのかも見えてくる >>863
結構被害は多かったと思うけどね
ただ被害が重い人と比較的軽い人と運よく被害に遭ってない人と色々いると思うから十把一絡げに見られてしまうとそれこそがまた新たな被害になると思う
この問題を批判する側も偏見や先入観は自重しないと自分が加害者になりうるという意識を持たないとね 世に出て来たコは全員食われてる
こう考えるのが普通でしょ
山といるスター候補生の中、より魅力のあるコを推し上げるのがジジイのビジネス
そんな輝く逸材を食わないワケがないでしょ >>865
真相知らないのに断定するのは良くないぞ
訴えられても知らんよ まあトシちゃんみたいなのは餌なんだろね
ああなりたかったら分かってるだろ?みたいな トシちゃんに激怒!メリーさん ジャニーズタレントと数々のエピソード
明るく面倒見のいい性格の一方で、厳しい一面も持ち合わせたメリーさん。さまざまなエピソードを紹介する。
▽田原俊彦に激怒 1991年、交際中の中山美穂とハワイ旅行に出かけた田原。しかし、帰国時に殺到したマスコミ陣の前に姿を現した中山をガードしていたのは、同じ便に乗っていた森光子さん、泉ピン子ら。大御所に彼女を“丸投げ”して一人で飛行機を降りた田原にメリーさんは「自分で守らなきゃダメ!」と激怒した。
▽電話で「学校にいる?」 メリーさんを「マミー」と呼んで慕ったTOKIOの松岡昌宏。高校時代、毎朝電話で「早く起きて学校に行きなさい」と言われ、その数時間後にまた電話をかけてきて「学校にいる?」と確認された。松岡は「本当に母親のような存在。あんなに細かく気配りできる人はいない」。
▽大のタバコ嫌い タバコが大嫌いで周囲で吸われるのも嫌がった。お酒は強く、ビールとウイスキー以外を好んだ。
▽日取りにこだわり タレントや社員の慶事の日取りにこだわった。相談に来たタレントや社員にアドバイスすることも。 「本当にユーは腹黒い!」ジャニーさんを激怒させた、田原俊彦の「密室すかしっ屁事件」
<僕は何を思ったか、とっさにジャニーさんを犯人に仕立ててしまったのだ>
タクシーを降りた途端、「ユー、いったいどういうつもりなの? 本当にユーは腹黒い!」と烈火のごとく怒るジャニーさん。
「トシは本当に人を陥れるのが上手いんだね」とまで言われてしまう。
しかし、この件で<「自分は恥をかかされたけど、あの子は機転が利いて、アドリブも利く」と、その時、ジャニーさんは僕のタレント性を見抜いていたらしい>というから、屁もすかしてみるもんだ。
<この話は、僕とジャニーさんとの間でずっと語り草になっている>――屁で結びついた絆、素敵だ。 トシちゃんの経歴で不思議なことの一つが高校1年の夏に研修生(現在のJr)入りして地元の高校卒業するまで本格的に上京していないところ 当時のジャニーズなら颯々と地元の高校を中退させて都内の夜間高校にでもブチ込みそうなのに >>869
グループのメンバーって占いだと均整が取れていて、
ジャニーが占って決めるのか?という噂があったけど
最終的なメンバーって実はメリーが決めてたんじゃない?
じゃなきゃカウアンのデビューを事務所に反対されたとか、
辻褄が合わない気がするんだけどな 天才テリー伊藤対談「田原俊彦」
テリー トシちゃんって、いきなりドーンと人気が出た印象だけど、ジャニーズ時代に苦労ってあったの?
田原 と思うじゃないですか。でも僕、高校の3年間、中央線に乗って(実家のある山梨県)甲府からレッスンのために毎週末、東京に通ってましたからね。
テリー 当時はまったく無名?
田原 ええ。今でこそジャニーズって勢いのあるイメージがあるかもしれないけど、僕らの頃はそうじゃなかったんですよ。音楽界はニューミュージックが席巻していて、ジャニーズはフォーリーブスが解散した直後だから、メチャメチャ低迷していた時期で。
テリー ああ、確かにあの頃、ジャニーズ文化がなくなっちゃうんじゃないか、なんて言われてたな。
田原 そう。練習生の僕らも、先がまったく見えなくて、ただひたすら歌とダンスとお芝居のレッスンをして、来るべき時に備えて準備をしておくしかなかったんですよ。
テリー つまり、いくらレッスンしてもデビューできるかどうかさえわからないわけだ。それって、とても不安だよね。
田原 だから、僕とマッチ(近藤真彦)、ヨッちゃん(野村義男)は、79年の「3年B組金八先生」というドラマに出会わなかったら、たぶんずっと世に出てないんじゃないですかね。そう考えると、全部運なんですよ。翌年、僕が「哀愁でいと」で歌手デビューして、(松田)聖子ちゃんも出てきたあたりからですよね、ちょっと時代が変わってくるのは。 テリー まさにアイドル黄金期の幕開けだ。トシちゃんは、あの時代の熱狂をどう感じていたの?
田原 もちろん、うれしかったですし、「これ、夢なんじゃないの?」って思えるくらいの状況でした。
テリー 当時、お休みはあったの?
田原 デビューして7、8年間は休みなしで働いていました。本当に忙しかったです。でも、いつまでその人気が続くかわからないし、いつまでも下手な歌を歌ってられないし、もっと踊りのスキルも上げなきゃいけないし‥‥なので、そんな中でもボーカルレッスンやダンスレッスンに通っていましたけどね。
テリー すごく冷静だね。マッチやヨッちゃんと、そんな将来の話をしてたりしてたの?
田原 いえ、話さなかったです。マッチは車にばっかり乗ってるし、ヨッちゃんはギターばっかり触っている(笑)。まぁ、2人はそういう好きな道を極めていくことを選びましたけど、僕はやっぱり人を楽しませるエンターテインメントが好きなんです。 >>71
逆にいえばこれだけのことしてなんで潰れずにいられると思ってんの? >>876
そもそも田原だけ年齢も詐称してて
随分年上なんだから趣味や話なんか合うわけない
少年時代に5つ近くも年の離れた人と将来なんて語らないよ >>38
田原俊彦の良さが分からなかったけど
こんなに可愛い人だったんだ
>>870
あのジャニーさんより上手で田原俊彦恐るべし >>865
自分もGOの噂話を聞いた昭和の終わり頃からずう~っとそう思ってきたけど>>875の話なんかを知るとトシちゃんは特別待遇だなぁ やられてないかもと思ったり 何だかんだで最初からあんまりヤル気が無かったマッチに パックンチョしたらとっとと辞めてただろうから やられたorやられてない の二通りいるんだろうな と ジャニーズ(1964年~1967年)
ジャニーズ事務所からデビューした記念すべき第一号のアイドルは、事務所の名前とおなじ名前がつけられた「ジャニーズ」です。
元々はジャニー喜多川さんの野球チームに所属していた4人をアイドルとしてデビューさせたことが、ジャニーズ事務所の始まりになります。
フォーリーブス(1968年~1978年)
「ジャニーズ」の解散の翌年にデビューを果たしたのは、またしても4人組の「フォーリーブス」です。
フォーリーブスは「ジャニーズ」のバックダンサーを務めたり、その頃ジャニーズjrと呼ばれていたので、今のジャニーズ事務所の体系を作った元祖グループといえそうです。
1978年には解散してしまいますが、その後2002年に活動を再開して2009年までライブ活動などをしていたようです。
JOHNNYS’ ジュニア・スペシャル(1975年~1978年)
フォーリーブスや郷ひろみのバックダンサーをしていたメンバーで結成されたのが、「JOHNNYS’ ジュニア・スペシャル」というグループです。
フォーリーブスの弟分として人気を博しました。
リトル・ギャング(1975年~1976年)
「リトルリーブス」のメンバーだった松原秀樹と曽我泰久の2名が結成したのが「リトル・ギャング」のデュオグループです。活動期間は1年と、とても短かったようです。
VIP(1978年~1979年)
JOHNNYS’ ジュニア・スペシャルの板野俊雄、畠山昌久、林正明の3人に、河村信子 、吉本和子の2名の女性を加えて結成されたのが「VIP」です。
初めてジャニーズ事務所のグループに女性が加わりました。今となってはとても珍しいですよね!
スリーヤンキース(1978年~1980年)
フジテレビの女子野球番組「ニューヤンキース」の企画で結成された女子3人で結成されたグループです。
ジャニーズ事務所で初の女子だけのグループになりました。2年後の番組終了後にしばらくして解散となりました。
たのきんトリオ(1980年~1983年)
ドラマ「3年B組金八先生」の記念すべき第1シリーズに生徒役で出演していた田原俊彦、近藤真彦、野村義男の3人で結成されたグループです。
グループ名の由来は、田原の「田(た)」、野村の「野(の)」、近藤の「近(きん)」を合わせて付けられていますが、正式なユニット名ではないようです。 なぜジャニーズ事務所はソロではなくグループばかりなのか
「フォーリーブスは、現在のジャニーズグループの原型と言っていいでしょう。それぞれの個性を明確にして、テレビで魅力を発揮した。SMAPなど、それ以降につながる1つの形をいち早く作ったグループでした」
1972年、ジャニー喜多川氏は郷ひろみをNHK大河ドラマ『新・平家物語』でブラウン管に登場させ、その後『男の子女の子』でレコードデビューさせる。
「フォーリーブスもドラマに出ていなかったわけではないですが、ジャニーズ事務所のタレントが本格的に役者活動を始めたのは郷ひろみからでしょう。デビュー年には森田健作の学園ドラマシリーズ『青春をつっ走れ』、『あしたに駈けろ!』と立て続けに出演しています。グループで各人の個性を明確にしたフォーリーブス、歌ではなくドラマでテレビデビューした郷ひろみという2例が『たのきんトリオ』に繋がります」
1975年に郷が事務所を離れ、フォーリーブスの人気も下降気味になってきた1970年代後半、ジャニーズ事務所は時代を牽引するようなタレントを生み出せていなかった。
その窮地を救ったのが、ドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)の生徒役に抜擢された田原俊彦、近藤真彦、野村義男の3人だった。
生徒役の田原、近藤、野村は三者三様の魅力があった。トシちゃんはある種の陰があって、マッチはヤンチャで、ヨッちゃんは親しみのある役柄。トシちゃんのデビュー曲『哀愁でいと』は、ドラマの役柄の雰囲気とも凄くリンクしていた。それも大ヒット曲になった理由の1つでしょう」
彼らは歌手デビューは別々だったが、『たのきんトリオ』と呼ばれるユニットとなり、映画はシリーズ化され、テレビでも毎日のように共演していた。以降、ジャニーズ事務所からデビューするタレントは、ひかる一平や中村繁之などを除き、シブがき隊や少年隊などほとんどがグループになった。
「1970年代までの男性アイドルは新御三家などをはじめソロが中心で、ファンからすると “事務所から与えられる”という要素が強かった。しかし、たのきん以降はグループ内でそれぞれ個性が違うので、ファンが好きなアイドルを選べるようになった。また、メンバー同士の関係性も楽しめるようになった」 「たのきんトリオ」の素顔 清水国明が今、楽屋裏を明かす
『ヤンヤン歌うスタジオ』とは、毎週日曜19時からテレビ東京で放送された人気音楽バラエティー番組(1977~1987年)。司会はお笑いユニット・あのねのね(清水国明・原田伸郎)。当時はまだ珍しい、たのきんトリオやピンク・レディーなどのトップアイドルが毎週出演し、歌やトーク、コントを披露した。
「公開番組でしたから、なんかふらふらしている3人組がいるなと思っていたら、あっという間に彼らのファンが大挙して押しかけてきて、入り口に出待ちが増え、みるみるその人数は増えていきましたね」(清水・以下同)
当時は、先輩も後輩もなく楽屋で遊んでいたのが近藤だ。
「本番の声がかかるとマッチなんかは、むしろすごく嫌そうでした。あの中では、ぼくがいちばんの年上だったので、マッチはぼくの顔色をうかがいながら、『原田さん、どこ?』って楽屋に入ってきて、寝ている相方・原田伸郎(68才)の顔を踏んづけるんです。原田は、『いてて…、ここやここや!』って言いながら、みんなで大笑いしてね」
『哀愁でいと』や『スニーカーぶる~す』など、次々にヒットを連発。だが、3人で出した曲は、田原の『哀愁でいと』のB面の『君に贈る言葉(アフタースクール)』と、田原の主演映画『グッドラックLOVE』の主題歌『ときめきはテレパシー』の2曲のみ。
映画では、近藤主演の『青春グラフィティ スニーカーぶる~す』(1981年)、『ハイティーン・ブギ』(1982年)などが大ヒットを記録した。
「マッチは天然だし、トシはいい意味でバランスを考えながら、2人は弾け具合を競い合っててね。ヨッちゃんはその頃からずっとギターを弾いていて、好きなことに没頭するタイプ。でも、いまとなってはそこを極めてるからすごいですよ。トシもマッチも結構尖ってましたから、その間でニコニコうまくとりなすヨッちゃんがいて、いいグループでしたね」
当時の彼らの人気については、冷静にこう分析する。
「独特の感受性でファンが何を求めているのかをピュアにダイレクトに感じて、それをねじ曲げずにストレートに表現していたので、一般大衆には非常にわかりやすく好感が持てたんだと思います」 歌はそれほどうまくないしルックスはそれほどでもないしで
よく成功したと思う >>884
私もそう思ってたけどYouTubeでトシちゃんの
「抱きしめてTonight」見たらカッコよかった タレントとして使えるやつ、金稼ぐやつには手を出さない
使えないやつは手を出す
経営者としてはある意味やっぱ有能だった 掘られたのかナメナメされたのかどっちよ、としちゃん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています