歌手の大黒摩季(53)が19日放送のTBS「中居正広のキンスマ」(金曜後8・00)に出演。姉と慕っていたZARDの坂井泉水さんとの思い出を涙ながらに語った。

 坂井さんは91年にZARDのボーカルとしてデビュー。94年の選抜高校野球開会式の入場行進曲になった「負けないで」が160万枚を超える売り上げとなり、スターダムにのし上がった。同曲は現在も日本テレビ「24時間テレビ」のマラソンで歌い継がれ広く親しまれる。作詞も担当し作曲家の織田哲郎氏とのコンビで「揺れる想い」「マイフレンド」などヒットを連発したが07年5月、入院先の都内の病院で高さ約3メートルのらせん状のスロープから転落し、脳挫傷のため40歳で死去した。

 坂井さんとの出会いは、大黒の「Being」での下積み時代。ある日、歌入れのレコーディングをしていた曲がZARDのデビュー曲となる「Good-bye My Loneliness」で、そのスタジオで出会ったという。

 年齢が2歳年上の坂井とは、自身が2作目の「DA・KA・RA」でトップアーティストの仲間入りを果たした後も、坂井たっての願いということもありZARDのコーラスに参加。大黒にとっては「見たことないタイプで…キラキラしていて、品があって、本当に素敵な女性」とニコニコしながら回顧。当時の「Being」の戦略として、アーティストの素顔をあまり表に出さないといったことこともあり「特にキレイだった(大黒談)」坂井を狙った週刊誌などのカメラマンには細心の注意を払っていたと当時を懐かしそうに語り、坂井の「髪ゴムを買いに行きたい」「カフェに行きたい」という願いをかなえるためにスタジオを何度も“脱走”した思い出を「怒られるのは私(笑い)。すっごい怒られました」と楽しそうに振り返った。カフェでは坂井から「作詞は私で、作曲は摩季ちゃん。一緒に曲を作って、いつか一緒に歌おう」と約束を交わしていたことも明かした。

 そんな2人は絶頂期の中、ともに子宮の病気に悩まされることに。坂井は2001年に活動休止、2006年には子宮頸がんを公表。そしてよく2007年5月27日に40歳という若さで帰らぬ人となった。

 坂井さんが天国に旅立った日は、大黒のデビュー記念日で、その日は15周年ライブで歌っていたという。ライブ後に悲報を耳にして号泣。「なんで世の中に必要な人を先に連れて行っちゃって…いっそ私を連れて行ってもらいたかった」と当時の思いを吐露。「太陽のような人。心が洗われる人。天才だった」と早すぎる坂井さんの生涯に思いを馳せ、涙した。

 ともに過ごした「Being」を大黒が飛び出す決意をした際には、坂井から1999年発売のベストアルバム特典写真集の表紙に、坂井の直筆で「私のためにも、これからもガンバって下さいね。遠くから応援しています」と書かれたメッセージを贈られていたことも明かした大黒は「芸能界のあれじゃこれじゃを分かっていながらにして…“絶対につぶされないで頑張ってね”ということだよね。私のためにも、いつかまた一緒にやろうねっていう…だから“遠くから”なんです」と激動の音楽シーンを同じ場所で過ごした2人だけにしか分からない思いが詰まったメッセージだと再び涙した。

 「一緒にライブをやろう」という果たせなかった約束、そして思いがこもった贈る言葉。大黒は2022年2月、ZARD30周年を記念したライブでスクリーンに映る坂井さんと歌声でのコラボを実現させた。「揺れる想い」。ボーカル坂井泉水、コーラス大黒摩季が約20年ぶりに蘇った瞬間だった。

 大黒は2010年に子宮筋腫(きんしゅ)など複数の子宮疾患の治療のため、10月末で活動を休止することを発表。公式ホームページでこれまで治療とともに度々体外受精を試みたが、流産を繰り返したことを告白した。2015年11月に子宮全摘出の手術を受け、長年患ってきた子宮疾患を完全克服。作詞活動や楽曲提供、ゲスト歌唱など活動を本格化させる中で、2016年10月16日、復帰後初の単独ライブを故郷・札幌市のニトリ文化ホールで行った。

スポニチ

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