読売新聞2023/03/25 16:15

https://www.yomiuri.co.jp/hakone-ekiden/news/20230317-OYT1T50310/

 箱根駅伝の歴史で、早稲田大の中村清(故人)ほどカリスマを感じさせる指導者はいない。

■再登板で30年ぶりV…1946~59年・1976~84年、総合V3回

 戦後間もなく母校の再建を任されると、闇市で稼いだ金を強化につぎ込み、1952年に18年ぶりの優勝を果たし、54年も優勝。実業団指導などを経て早大の復活を再び託されると、84年に頂点へ導いた。30年の時を隔て、箱根優勝を果たした指導者はほかにない。

 逸話も強烈だ。監督として早大に戻った76年、新人の瀬古利彦さん(66)らを前に「これを食えば世界一になれるなら、私は食える」と言って土のついた草を食べた。ある時は自らを殴り続けたり、思い切り脚を踏みつけて骨折したり。ただ、瀬古さんの同期で、早大とエスビー食品で中村に仕えてマネジャーを務めた村尾慎悦(しんえつ)さん(65)は「それは一面にすぎない」と指摘する。

 村尾さんによると、過激な言動は主に再登板当初のこと。70年代の早大は、箱根予選落ちが3度あった低迷期。グラウンドにたばこの吸い殻や空き缶などが転がっていたという。

 「そんな状態の母校をもう一度強くしたい気持ちから、自らの体を犠牲にしてでも緩んだタガを引き締めようとしていたんです」

 そして、就任して3、4年すると、中村体制で走りたい選手が全国から集い、理念を共有した戦う集団ができあがっていたという。当時の指導について村尾さんは「指導者は選手の8倍努力しなければいけないと、学び、挑戦していた。そして、選手には試合でどうベストの状態にするか常に考えさせていた」と語る。

 東京・千駄ヶ谷の中村の自宅の壁には、教え子たちの過去2週間ほどの練習内容が貼られていた。選手たちは常々それを眺め「過去の練習と今の関連をつかみ、未来を考え抜く思考トレーニングをやっていた」。

■2位に15分以上の差、レース後は即練習

 そして、84年、早大は2位日体大に15分以上の差をつけて30年ぶりの優勝を果たす。往路優勝した1月2日の夜、村尾さんは宿舎の隣で寝ていた中村が苦しんでいるのに気付いた。高血圧などのため携帯していたニトログリセリンを飲ませ、事なきを得た。翌朝、中村は周囲の心配をよそに監督車に乗り、4年生には名物となっていた「都の西北」を歌い聞かせた。

 「まさに勝負に命を懸け、10人が完璧な芸術的な駅伝を完成させた」と村尾さん。教え子たちと自宅に戻った中村は「さあ練習だ」。選手たちは、はじけるように神宮外苑へ向かったという。(編集委員 近藤雄二)