【野球】ヤクルト前身球団の“消えた野球場”…JR三鷹駅にあった国鉄スワローズの「幻の巨大スタジアム」、今は何がある? [砂漠のマスカレード★]
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今回やってきたのは、中央線の三鷹駅である。
三鷹駅、何を思い浮かべるだろうか。中央線ユーザーであれば、中央特快と快速が待ち合わせる駅、というイメージが強い。あとは総武線各駅停車の終点、といったところか。駅の外に出てみると、北口が武蔵野市、南口が三鷹市と分かれているから、少し前、時短営業の“境目”でも話題になった。駅の西にある跨線橋は太宰治も歩いたことがあるとかで有名だが、老朽化によって取り壊し云々と騒がれている。
スワローズの“消えた野球場”
……と、スポーツなどとはまったく関係のなさそうな三鷹駅である。駅の周りを少し歩いてみても、東京郊外の駅っぽい商店街があるくらい。いったい、三鷹に何があるのだろうか。
ここで早々に答えを明かしてしまうと、三鷹駅から少し北に離れたところにかつてプロ野球の試合が行われた野球場があった。使っていたのは主に国鉄スワローズ。さらに野球場どころか、三鷹駅の先で中央線から分かれて球場の目の前まで運転される鉄道路線までもうけられていたのだ。さすが天下の国鉄のプロ球団、球場に線路まで引っ張ってしまったのである。
もちろん、誰もが知っているように今は国鉄スワローズは東京ヤクルトスワローズになって、三鷹にプロ野球の球場などはない。その球場への鉄道路線なんてとうぜんとうの昔に消え失せている。ならば、その跡地はどのようになっているのか。三鷹駅から歩いてみようと思う。
野球場への“廃線”を歩く
どうせ野球場の跡地に行くならば、そこに通じていた線路の跡を歩くのがいいだろう。そういうわけで、まずは廃線跡を探してみることにする。
古い航空写真を見ると、三鷹駅から野球場への線路は駅の西側、件の太宰治の跨線橋の少し先から分かれていたようだ。三鷹駅北口から玉川上水を渡って線路際の道に出て5分弱。跨線橋の先に、何やら遊歩道のようなものが現れた。これが、かつての野球場への線路の跡なのだろう。
遊歩道は「堀合遊歩道」と名付けられている。堀合とはこの一帯の地名のことで、跨線橋の近くにある線路をくぐる地下道も堀合地下道という。さっそく堀合遊歩道を進んでいくと、木々が生い茂って散策路は右に左に蛇行しながら伸びている。が、よくよく落ち着いて眺めてみると、全体的には大きな弧を描くような道筋だ。幅もクルマでいえば1車線には余るし2車線には足りないあんばいで、見る人が見れば「これは廃線跡だな」とすぐに指摘してくれそうな道である。
とにかくこの道をしばらく歩く。ゆったりとしたカーブを描く道だから感覚としてはまっすぐ進んでいるようでも気がついた頃には北側へ方向転換。新武蔵境通りと並んで玉川上水を再び渡り、このあたりからは三鷹市から武蔵野市へと入る。武蔵野市側にも廃線跡の遊歩道は続いているが、こちらは堀合遊歩道ではなく「グリーンパーク遊歩道」という。住宅街の中のこの道を延々と歩いた先に、野球場があったのだ。野球場の名は「武蔵野グリーンパーク野球場」。遊歩道の名前に、しっかりといにしえの球場の歴史が刻まれている。
5万人以上の巨大スタジアムだった!
堀合遊歩道からグリーンパーク遊歩道へと歩くこと約20分。住宅地が途切れたところで武蔵野中央公園という広々とした公園が現れた。ここが野球場の跡地か……と思いたいところだがお目当てはもう少し先にある。
https://news.yahoo.co.jp/articles/70ff5bd306fee90c1b2f3db8d8e839f25ad77fc9
6/13(日) 11:05配信
https://stat.ameba.jp/user_images/20190204/19/r390gt1/56/35/j/o0320016414350534588.jpg
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/002/121/32/N000/000/013/144492378574562203180_img205.jpg
https://labola-prod.s3.amazonaws.com/p_blog_te/pf/6g/we/4m/f3/sx/36/pn/s4/6b/i3/am/ff/tm/tc_medium1.jpeg
https://pbs.twimg.com/media/EYnR390UwAAEEh4.jpg
https://tama-meguri.com/blog/wp-content/uploads/2020/11/2020-11-04-3.png 公園の中を抜けると巨大団地の中に入り、そこをさらに進んでいくと、団地の中の小さな広場がある。その傍らに、「武蔵野グリーンパーク野球場がここにあったよ」と教えてくれる説明書きが置かれている。
スタンドの跡やホームベースなどはもちろんどこにもなくて、他にここに野球場があったことを伝えるものは団地を取り囲むカーブをした道路くらいだ。きっとこの道路は、野球場の外周道路だったのだろう。
今は団地に生まれ変わっている武蔵野グリーンパーク野球場。それはどのような野球場だったのか。調べてみると、開場当時は新聞などに「東日本一の野球場」と謳われていたという。何しろ両翼91.4m、中堅128.1mという今の国内の野球場と比べても圧倒的な広さを誇り、収容人数は5万1000人(一説には7万人とも)。つまり、天下の甲子園球場もびっくりの巨大なスタジアムが三鷹にあったのである。 70年前、なぜ三鷹に野球場を作ったのか?
武蔵野グリーンパーク野球場が開場したのは1951年のこと。前年に誕生していた国鉄スワローズが主に使うことを想定しており、観客輸送のための路線も時を同じくして誕生。野球開催日のみ運転される臨時列車専用路線だったようだ。
といっても、いくら国鉄でも自らの(正確には国鉄の外郭団体が出資)球団のためにゼロから線路を敷くほどお人好しではない。というか、そんなことをしたら政治家もびっくりの我田引鉄。今の時代だったら大炎上間違いなしである。もちろん当時の国鉄にもそんな余裕はないわけで、この野球場への路線(武蔵野競技場前支線)は既存の線路を活用して設けられたものだった。
戦前から戦時中にかけて、野球場のあった一帯には中島飛行機の軍用機エンジン工場(武蔵野製作所)が広がっていた。いわゆる軍需工場である。当時の工場生産品の輸送は鉄道に依っていた部分が多く、工場への専用鉄道が敷設されるのが常だった。中島飛行機の工場にも専用線が敷かれていたのである。戦後の野球場への線路はこの専用線跡地を再利用した、というわけだ。
野球場そのものも中島飛行機の工場跡地に生まれている。戦後、軍事関係の施設はことごとく進駐軍に接収されてしまって、中島飛行機の跡地も西側は米兵たちの住宅団地に生まれ変わっていた。残った東側がいち早く返還されて、そこに野球場が作られたのだ。
当時、進駐軍に接収されていた施設は軍事施設だけに限らず、明治神宮野球場も米軍の管理下に置かれていた。神宮球場が使えない以上、他に使える都内の野球場は後楽園球場が精一杯。あとはせいぜい上井草球場くらいである。そんなところにプロ野球も2リーグに分かれて球団数が増え、隆盛期を迎えようとしていた。たくさんのお客が来てくれるはずの首都圏でも、圧倒的に野球場が足りていなかったのだ。そこで“新球団”国鉄のための球場として、進駐軍から返還された元軍需工場の更地に目がつけられた。そうして生まれたのが、武蔵野グリーンパーク野球場である。 16試合だけ…たった1年で使われなくなった理由
武蔵野グリーンパーク野球場、経営していたのはその名も東京グリーンパーク株式会社。野球場の正式名称は「東京スタディアム」といったらしい。社長は東海大学創設者の松前重義、役員には武者小路実篤や近衛秀麿が名を連ねていたというからなかなかのものだ。かくして5万人規模の巨大スタンドと日本一レベルの広大なグラウンドを擁して、武蔵野グリーンパーク野球場は1951年5月5日こけら落とし。国鉄スワローズと名古屋ドラゴンズの試合が行われ、6対3で国鉄が勝利、あの400勝投手・金田正一が勝ち投手になっている。
ところが、当初は年間180試合を目標にしてナイター用の照明も設けたというのに、ここで行われたプロの試合はたったの16試合にとどまっている。アマチュアの試合を含めてもわずか66試合。そして翌1952年からはもうプロの試合で使われることはなくなって捨て置かれ、1959年には廃止されてしまった。 豪華絢爛の設備を誇った東日本一の野球場がなぜわずか1年で消えたのか。どうやら、地盤の緩い関東ローム層の上に突貫工事で作ったために芝が根付かず、風が吹くと砂埃まみれになるほどの悪環境だったという。
時には試合も中断したというから野球をするには劣悪すぎる環境である。
それに、当時の人にしてみれば都心から遠い辺境の地。
できることならば、選手も観客もここで砂埃にまみれながらの野球はしたくないし見たくなかったのだろう。
さらに1952年には神宮球場の接収が解除され、川崎には川崎球場が誕生。
武蔵野グリーンパーク野球場建設のきっかけだった“球場不足”が解消されてしまったのだ。
そうなれば、わざわざ砂埃まみれの遠い地で野球をする理由は見当たらない。
当時はまだフランチャイズ制が導入されておらず、少しでも集客力のある球場で試合をするのが常だったから、国鉄スワローズといえども武蔵野グリーンパーク野球場に固執する理由はなかったのである。
そうして野球場はたったの1年で役割を終えて、同時に球場への観客輸送を担った鉄道路線もいつしか廃線となった。球場は1956年に解体されて跡地は団地に生まれ変わり、廃線跡は遊歩道に。わずかに当時の面影が残っているとはいえ、意識しなければ気がつくようなものでもない。団地の隣(つまり球場跡の隣)には武蔵野市役所が建ち、武蔵野市の陸上競技場や軟式野球場もあるが、それらはもちろん武蔵野グリーンパーク野球場とは関係がない。「緑町」という地名が、当時ここに“グリーンパーク”があったことをかろうじて伝えているだけだ。戦争と、それに次ぐ混乱の時代に生まれたたった1年だけの野球場。三鷹には、そんな歴史も刻まれているのである。 プロの球団なのにホームスタジアムが大学野球優先って恥ずかしくないのかな ここをサッカースタジアムに変えたら武蔵野シティは、Jリーグいけたな 東京スタジアムって名前は違う施設で何度も使われてるね >>13
あれは南千住の東京スタジアム
ロッテの本拠地 >>13
違う
それはロッテの前身の大毎オリオンズのホームスタジアムで荒川区にあった 1950年代の時点では、神宮球場はアマチュア専用球場で、プロ野球は逆立ちしたって使わせてもらえなかったのだが。
スワローズが神宮球場を本拠地として使えるようになったのは1964年から。少し前から国鉄球団に経営参画していたフジサンケイグループの水野成夫社長の政治力で実現した。その過程では、国会で「神宮外苑でプロ野球を行うのは是か否か?」というやりとりもあった。 武蔵境に境浄水場専用線跡もあるぞ
東小金井には貨物駅があったそうだ やきうって当時からムダだし水増し当たり前だったんだな
この写真ですら客席埋まってないし >>14
ここの球場名は特にまぎらわしい
正式名称「東京スタディアム」
通称「武蔵野グリーンパーク野球場」
セリーグでの略称「三鷹球場(三鷹)」
パリーグでの略称「武蔵野球場(武蔵野)」 >>20
中央線が開業した当初は中野の次の駅が武蔵境だった >>21
子どものころ野球少年なイジメられたんだね可哀想に 荒川区の東京スタジアムはプロ野球ニュースでやってた球場物語で知った
この野球場は球場物語でやったっけ >>1
子供の頃親父に連れられ国鉄の試合を見に行ったわ
野球は興味なかったけどラムネ買ってもらうのが楽しみでね
懐かしいわ >>10
西武鉄道は1936年にプロ野球の球場を
上井草に建設してるよ
後楽園球場ができるまでの間、プロ野球の試合がたくさん行われた 横須賀にアトムズ時代の2軍球場今もあるよ。
2軍は戸田に移ったけど。 >>9
国鉄職員出資の弘済会が運営した球団なので国が球団持ってたわけではない >>31
俺もこっちは知ってた
同じ名前の球場が三鷹にもあったとは >>33
神宮はただでさえ老朽化が進み秩父宮を含めた再開発計画もあるので待ったなし
マリンは築30年程度なので建て替えはまだ先かな 三鷹と言われて思い浮かべるのは裸や性器の画像をばらまかれて殺された鈴木沙彩かな >>1
緑町のパークタウンだな、市役所南端に隣接する。
構内道路のカーブに球場の輪郭が残ってるよ。 終戦で丸焼けになってから、たった6年で野球場作るとか、どんだけ野球好きなんだよ。 1950年代の三鷹と言えばちょうど青線があった時だな こういう球場を残さなかった時点でプロ野球はクソなんだよな
ドーム球場ばっかりウンザリしてるわ そういえば
東京五輪で明治神宮球場新たに立て直すって話あったような気がしてたんだが
記憶違いだったか >>54
ドームはコンサートホールにはいいけど野球はお天道様の下で観たいよな 写真見てもセンターが深いのが判る。
128メートルあったらバックスクリーンホームランなんて
なかなか出ないよ。 自分の町にプロスポーツチームがあるのとないのでは
やっぱ違うよ。
宗教以外でいちばん結束力が高まるね 知らんかった
あの道廃線跡だからあんなところで急激にカーブしてたのか 西宮 大阪 藤井寺 平和台 川崎
以降も結構スタジアム無くなってるね どういう基準で5万人以上入るってことなんだろう、オールスタンディング? ヤクルトの前はサンケイアトムズで国鉄スワローズはその前だな >>8
甲子園だって高校野球のほうが優先されてるだろ 大昔の中日が本拠地にしてた球場は自動車学校になってるな
スタンドの外壁とか照明が部分的に残ってる プロ野球の国鉄スワローズのある意味後継がサッカーJ2リーグのジェフ千葉 >>28
この頃から水増ししてたことには触れられないの?バカなの?
バカだからやきうなんか見てるの?
写真から見ても後楽園よりキャパでかいようにも見えないんだけど
そこはバカにはどう見えてるの? サッカーの武蔵野シティは今年から資本がついたのになぜかとんでもない低迷してるな >>49
東海道線走ってた頃だね。
後継は九州で特急→新幹線 >>59
それは娯楽がパチ屋とイオンモールしかない田舎者の発想
地域としての結束なんて都民にとっては束縛でしかない この球場とか駒沢とかを見ると
いくら試合時間にたいして観客の流動が緩いとはいえ
万単位の移動をどう考えてたのかわからんな 芝が根付かず、風が吹くと砂埃まみれになるほどの悪環境
選手も観客もここで砂埃にまみれながらの野球はしたくないし見たくなかった
サッカー場建てればよかったな プロ野球もすっかり幻になってしまったな。
どこの選手で、どこのチームか分からなくなったし、話題にも挙がらない。 >>41
千葉は塩害が酷いから立て直す計画を始めてるぞ >>64
甲子園大運動場(甲子園球場)は中等学校(現高等学校)野球のために作られたからね
朝日新聞主催で全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)を
箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の豊中グラウンドで開催されることになって
第2回まで豊中で開催されてたが第3回から阪神電鉄の鳴尾球場に移して
行われることになったが中等学校野球が大人気になって客が入りきれんようになったので
甲子園大運動場を建設して第10回から甲子園で行われるようになった >>62
写真をみる限り外野スタンドは芝生のみ
座席がないのでどうにでも詰め込めるという前提なのだろう >>54
西武ドームも屋根が無い頃の方が100倍素晴らしいが
しゃーない。
あの辺は湖近いこともあってにわか雨も多く
都内で晴れてるから行こうとしたら
行く途中で雨天中止を知らされる、
なんてことが度々あった。 戦後の三鷹って大事件のイメージしかない
それを払拭する意味での球団とか球場だったのかもしれない >>80
西武球場は雨天中止や試合中止が本当に多かったな >>75
サッカー場は隣のムサリクで事足りた
何より昭和26年にサッカー専用スタジアムなんて需要もなければ安定供給するソフトもなかった >>81
多摩地区起点なら都心から首都圏各地までどこにでも日帰りで行けるので、何もなくても構わない
インフラが充実しているメリットは大きいんよ ここって現武蔵野市役所じゃん
境住んでた時に何回か無心しに行ったは
三鷹は無理あんだろ
武蔵野市なんだから >>61
順番に
大型ショッピングセンター
大型ショッピングセンター
学校
遺跡公園
アメフトスタジアム >>8
東京六大学や早慶戦の方が上だった昔のなごりだよ。 建設中の都立高井戸公園に野球場できるらしいけどアマチュア専用なんかな スワローズがヤクルトになってからもうずいぶん経つけど ヤクルトが球団を持ち続ける理由って何かね? ヤクルトがそんなに金持ち企業とは思えないけどなあ >>83
雨でもやればいいのに
中止にするのがおかしい >>71
横河にみずほが付いて弱くなるという。
守備がイマイチ 南海球場を潰したのはいろんな意味でもったいなかったよな >>97
一昨年昇格のチャンスを観客動員でふいにするとか本当にもったいなかったな >>100
大阪球場 なんばパークス
西宮球場 阪急西宮ガーデンズ
日生球場 もりのみやキューズモールBASE
藤井寺球場 四天王寺学園、グランスイート藤井寺(マンション)
になったな >>90
そうなんだよな、1930年代〜40年代はプロ野球よりも東京六大学野球の方が人気があったし、花形だった
プロ野球が完全に上になったのは、長嶋茂雄の登場以降 玉川上水を渡るところに
当時の鉄道の名残がちょっとだけある >>41
塩害で結構ガタが来てるんで立て替えの話は出ている…実現はまだまだ先だけど >>80
西武ドームの屋根付けたから夏蒸し暑くて冬極寒なのは想定してたんだろうか >>100
子供のときイニング合間に売店で素うどん買って席に戻ろうとしたとき
お椀丸ごと盛大に撒き散らしたわ。あの階段の角度はトラウマ。 >>100
あの立地で客が入ってなかったのに無茶いうな
>>102
競技場の環境で昇格を逃すケースが多いってのは
集客イベント運営への地域の意識と能力がないってことで
めちゃめちゃ恥ずかしいことなんだけどな
それこそ大阪球場のような立地ならたいして問題にならないんだけど 武蔵野ヤクルトスワローズか
所沢西武ライオンズと近いっちゃ近いな 南千住球場の近くに住んでるけど
あそこはまだ生き残ってるというのに(´・ω・`) 1964年、本拠地を後楽園球場から神宮球場へ移転する(移転の経緯については後述のフジサンケイグループ及び明治神宮野球場#ヤクルトの本拠地を参照)。7月30日、金田正一が入団2年目の1951年から14年連続となるシーズン20勝を達成。61勝74敗5分、首位阪神と18.5ゲーム差の5位に終わる。同年オフ、林義一の監督更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エースの金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞、朝日新聞、毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。
1965年、4月23日、国鉄は球団の経営権をサンケイ新聞とフジテレビに譲渡することを発表し、5月10日、サンケイスワローズ( Sankei Swallows )に改称。サンケイ初年度となったが、国鉄初年度以来の90敗以上となる、44勝91敗5分。首位巨人とは45.5ゲーム差となった。この年からドラフト会議が行われているが、1位指名の河本和昭をはじめ11名中9名が入団拒否している。 1966年、1月7日、少年野球ファン開拓のためという理由に加え、フジテレビで鉄腕アトムが放送されていたことや手塚治虫が当時球団後援会副会長(会長は徳川夢声)だったという経緯もあって鉄腕アトムをペットマークに使い、チーム名をサンケイアトムズ( Sankei Atoms )に、運営会社名を株式会社サンケイアトムズに改称。同年ヤクルト本社が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。52勝78敗で大洋と並んで5位、首位の巨人とは37ゲーム差。
1969年、産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった南喜一が代表者を務めていた。実質経営権はヤクルト本社が握ったが、表面上は共同経営とし球団名をアトムズ( Atoms )と、運営会社名を株式会社アトムズ球団とした。これは2リーグ分立以降でチーム名に企業名・地域名などの冠名がつかない唯一の例となった。この年はボブ・チャンスが24試合で12本塁打を記録し、58勝69敗3分で、首位の巨人と16.5ゲーム差の5位だった。 >>8
今はまだましになった方だぞ
以前は日本シリーズができなかったりとかしたからな >>90
というか、もともと学生野球のために作られた球場だから
本当は貸したくないくらいだった 日本って野球に税金使い続けてきてこんな国になっちまった >>19
長嶋さんがプロになるまでは大学野球の方が人気、格上感あったからな。強気ですよ >>121
昭和天皇が野球見に来た天覧試合以降プロ野球が上になったんだっけな。 >>122
皇族、それも天皇皇后両陛下を下衆な職業野球観覧に引っ張り出せたのはやはり長嶋効果としか言いようがない
正力も千載一遇のチャンスとばかりに強気でオファーをかけたに違いない ヤクルトは横須賀の武山球場なんかも
二軍の施設として使っていたらしいね 少し前、地方に無駄に立派な
新球場よく造ってたがもう
造らないね、どこか計画有るの? >>55
五輪には間に合わなかったけどいまの秩父宮ラグビー場のとこに新球場つくり神宮第二球場の所にラグビー場作ることになってるよ >>118
ヤクルトが東都相手に遠慮しなくなったからな
GWの火曜水曜や六大学開幕前の土日、入替戦等・・・
特に以前土日に単独で行われていた1部2部入替戦は2部優勝校が動員用チケットを結構購入するので連盟にとってはドル箱だった >>128
区民向けの運動施設になったんじゃなかったっけ >>87
最寄り駅はJR三鷹だから・・・
近くに住んでたが、中島飛行機の工場跡地だったからか、戦時中に落とされた不発弾の処理とかあったなあ
あとスバルの社員寮があった気がした >>12
あぁこの球場ってムサリクの向かいの武蔵野市役所の裏のか JR三鷹駅にあったって、駅そばみたいに言うけど、歩いたら30分くらいかかるな >>26
三鷹駅が開業したのは
武蔵境駅開業から41年も後の出来事 >>109
屋根付け工事をした鹿島によると、「壁がないことで風が通りぬけて涼しくなる」と言ってたそうだ
その当時の記事によると、電車みたいに座席の下にヒーターを付けることで寒さ対策するとあった
結局ヒーターは付けられず、風が吹かない真夏は熱が籠るという最悪状態にw お前らニワカやから教えるけど
志村けんか誰かの豪邸あるやろ?
三鷹、見たか? 味の素スタジアムの正式名称も
東京スタジアムじゃなかった? >>71
オリックスバファローズみたいなもんでそう簡単に一枚岩になれないんでしょ 荒川区の東京スタジアムは巨人との日本シリーズでホームランを打った長嶋がスキップしながらダイヤモンドを一周するシーンが有名だよね。あと、ベンチがレンガ敷きだったのも有名な話。 1951年とは古いな
この年の国鉄スワローズはペナントレース途中打ち切りのため107試合しか消化してないが
高校中退してプロ入りしたこの年2年目18歳(高校3年生に相当する年齢)の金田は
なんと350イニングも投げている 砂埃で試合にならんとか当時相当突貫工事だったんだろうが資料見ると色々興味あるわ、武蔵野野球場までの電車あったとか
南千住の東京スタジアムは一度行ってみたかったな >>1
これだろ?
実働わずか8か月! 東京に残る「薄幸」鉄路、武蔵野競技場線の跡を歩く(写真17枚) | 乗りものニュース
https://trafficnews.jp/post/82600
吉祥寺で繰り広げられた京王と西武の争い 幻の鉄道計画の顛末(写真10枚) | 乗りものニュース
https://trafficnews.jp/post/83971 両翼がたったの91mでセンターが128mもあるとか変な形
左右中間真っ二つで足のある選手なら余裕で三塁打だし外野手がちょっと手間取ったらそのままホームインだろ >>54
よくこれ言うヤツいるけど日本は梅雨があるしある程度ドーム球場が無いと日程消化できないぞ
どうせMLBのようにダブルヘッダー上等な気概も無いだろ 巨人軍発祥の地である津田沼の大地主三○川さんは、駅南側一等地の広大な農地に野球場を復活させようと企んでたらしい
結局、普通にマンション群や公園になったが >>157
あの駅の海側の地区か
もったいない
千葉ロッテの本拠地を作ってくれれば >>159
ユース以下の下部組織は横河武蔵野のまんまという、
よく分からん状態 おれ、実家は三鷹駅が最寄りの武蔵野市。
今住んでるのは、国立駅が最寄りの立川市。
嫁実家は目白駅が最寄りの豊島区。 >>123
しかし今でも野球の天皇杯は東京六大学野球に下賜されているな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています