0001首都圏の虎 ★
2020/11/24(火) 10:21:12.45ID:CAP_USER9藤川は高知商から1998年ドラフト1位で阪神に。当初は先発投手だったが、2004年に救援投手に転向。
転機となったのは阪急ブレーブス時代に剛速球で鳴らした山口高志コーチとの出会いだった。山口コーチは「体をまっすぐにして軸足の右ひざを折らずに倒れこむ。右腕は上から下へ振りぬく」というシンプルな指導で藤川のフォームを改造。藤川も「山口コーチの指導は自分に合った、自分に届いた」と語っている。
翌年には勝利の方程式「JFK」の一人として活躍。中継ぎ投手の指標である「ホールド」は、この年からNPBの正式記録となったが、藤川は46ホールドを獲得し、セ・リーグ初代の「最優秀中継ぎ投手」となる。藤川は翌2006年も最多ホールドを獲得、連続で最優秀中継ぎ投手となった。この時期までの藤川は、リーグ最高のセットアッパー(勝ち試合での中継ぎ投手)だったのだ。
翌2007年、クローザーに転向すると最多セーブを獲得。セットアッパーとクローザーは、同じ救援投手だが、実は両方で実績を挙げる投手はそれほど多くない。
しかし藤川は2007年から6年間もリーグ屈指のクローザーとして活躍した。
2013年にはMLBに挑戦。カブス、レンジャーズで投げたが、3シーズンで2セーブ1ホールドと活躍することはできなかった。
2015年、日本に復帰するにあたって藤川は直接NPB球団に入団するのではなく、郷里の独立リーグ高知ファイティングドッグスに入り、6月から9月の3ヵ月間、高知で投げた。高知では2002年以来の先発のマウンドにも立ち完封も記録。この独立リーグでの時間は、藤川にとってリフレッシュするという意味で、大いに有意義だったようだ。
2016年に阪神に復帰。1年目は打ち込まれるシーンも多く、3セーブ10ホールドに終わるが、2017年からはセットアッパーとして好成績を挙げた。
そして2019年にはシーズン途中からラファエル・ドリスに代わってクローザーになり16セーブを記録。
松坂世代の選手が衰えて次々と引退する中、39歳でクローザーとして活躍する藤川球児は驚異的な存在だった。
2019年オフの段階で、日米通算セーブ数は243、名球会入会の基準である250まであと7と迫っていた。
2020年は、シーズン当初からクローザーで起用されたが、打ち込まれて試合を落とすケースが相次ぎ、8月10日の試合を最後に二軍落ち。8月末には引退を表明した。
最終成績は、782試合60勝38敗243セーブ163ホールド。防御率2.08。最多セーブを2回、最優秀中継ぎ投手を2回獲得している。日米通算セーブ数は245にとどまり、名球会入りの「通算250セーブ」には届かなかった。
243セーブはNPB歴代4位、163ホールドは今年引退を表明した五十嵐亮太と並ぶ5位タイ。
150セーブと150ホールドを同時に達成したのは、藤川球児とオリックスの増井浩俊(163セーブ、157ホールド)の2人だけ。
一世を風靡した藤川球児だが、名球会入りはならなかった。では、野球殿堂入りはどうだろうか?
救援投手は1974年にセーブが公式記録として導入されて以降、注目されるようになった。
それ以前にも「8時半の男」巨人の宮田征典や、中日の板東英二など救援で活躍した投手はいたが、殿堂入りすることはなかった。
救援専門投手で最初に殿堂入りしたのは、2012年の津田恒実。津田は広島で「炎のストッパー」と呼ばれ1989年に28セーブで最多セーブのタイトルを取っているが、通算では90セーブに過ぎない。津田は現役中の1993年に32歳で病のため死亡。悲劇的な生涯が、殿堂入り選考資格のあるスポーツ記者を動かしたという一面はあるだろう。
全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/7acd6bda82030c1b4714bd95dee5e7992bd21200
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